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松山地方裁判所 平成9年(わ)249号 判決 1999年5月31日

主文

被告人を無期懲役に処する。

未決勾留日数中六〇〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五七年八月一九日午後一時ころ、松山市《番地略》にある甲野ビル七〇三号室のA子(当時三一歳)方(以下「A子方」という。)を訪れ、A子と話をしていた。被告人は、そのころ、家具などを手に入れる必要に迫られていたところ、そのうちA子が飲酒による酔いや眠気のため、激しく抵抗することが困難な状態に陥ったことから、咄嗟に、A子を殺して、A子方にある現金や家具などを奪い取ろうと考えた。そこで、被告人は、その考えを実現するため、同日午後二時過ぎころ、A子方にあったA子の帯締め(以下「本件帯締め」という。)を手に取り、ソファーに座っていたA子の正面から本件帯締めをA子の首の後ろにかけて前で一回結んだうえ、本件帯締めの両端を強く引っ張って、A子の首を絞めた。その結果、A子は、まもなくその場で、外力性急性窒息により死亡した。それから、被告人は、A子方を物色し、A子が所有する現金一〇万円が入った札入れ、普通預金通帳二冊及び印鑑一個(調達価格合計一万〇三〇〇円相当)を奪い取った。さらに、被告人は、同日午後八時ころから午後一〇時過ぎころまでの間、詳しい事情を知らないB’(現在はB)及びCと一緒に、A子が所有する現金三万〇〇二〇円、米国通貨四ドル一セント(日本円に換算して一〇四八円八一銭)及び整理ダンスなど別紙被害品内訳一覧表1ないし96、98ないし227記載の三三四点(調達価格合計九五一万九三二〇円相当)をA子方から運び出して奪い取った。

(証拠)《略》

(事実認定の補足説明)

第一  主な争点

一  犯行の計画性

検察官は、本件犯行は、A子を殺して現金や家具などを奪い取ろうと考えた被告人が、予め奪い取った家具などを運び込むための部屋を賃借したうえ、実家から家具を送ってもらう旨の嘘を言って、家具などの出所を怪しまれないようにしたり、パトロンから逃げるホステスの夜逃げ話を創作して、その手伝いと称してA子方から家具などを運び出すことを頼んだりして、綿密かつ周到な計画を立て、入念な準備を重ねて敢行された計画的なものである旨主張する。

これに対し、弁護人は、本件犯行は、被告人がA子から軽蔑するかのような態度を取られたりしたことをきっかけとして、その場で決意した偶発的な犯行である旨主張し、被告人もこれに沿う供述をする。

二  強盗殺人の故意

1 弁護人は、被告人がA子を殺した際に現金を奪い取る意思があり、強盗殺人罪が成立することを認めながらも、家具を奪い取ることを決意したのは、A子を殺した後にA子が失踪したように装おうと考えたときであり、A子を殺した際には家具を奪い取る意思はなかった旨主張し、被告人もこれに沿う供述をする。

2 また、被告人は、要旨「私は、A子に共同経営の形で新たにスナックを開店する話をするためにA子方へ行った。私は、A子が共同経営の話を断るとともに、鏡台の方に行って背を向けたので、文句を言うと、A子が「車代ぐらいやったら持って帰り。」と言って私の方に財布を放り投げたりしたので、腹が立って果物ナイフを手に取って立ち上がった。すると、そのナイフを取り上げようとするA子と揉み合いになり、A子が指を切ったので、私は、A子にティッシュペーパーなどを渡した。ところが、A子が「こんなまねして。警察に言うてやる。」などと言ったので、私は、腹が立ってA子に掴みかかろうとしたが、A子が胸を蹴ったので、転倒したところ、帯締めが目に入ったので、帯締めでA子の首を絞めてA子を殺した。それから、私は、戸締まりのためにA子方の鍵を探していると、札入れや預金通帳があったのでこれを奪い取った。私は、A子を殺してまで札入れや通帳を取るという気持ちはなかったが、後から考えると、潜在的にそのような気持ちがあったと思う。」と供述する。

3 そこで、最大限被告人の利益に被告人の供述を解釈すれば、被告人は、A子を殺した際には、現金を含むA子の財産を奪い取る意思がなかった、すなわち強盗殺人の故意がなかった旨の供述に帰すると考えられるので、この点も含めて検討することにする。

第二  犯行前後の状況

一  関係各証拠によれば次の事実が認められる。

1 被告人の生活歴など

被告人は、昭和二三年一月二日、松山市で生まれ、昭和四〇年ころ、愛媛県今治市にある高校を中退して、同年六月ころ、家出して当時交際していた男性と高松市で同棲生活をし、その間、ホステスなどの職を転々とした。被告人は、同年九月一七日、生活費に窮したことから、その男性と共謀して、深夜、高松市にある家屋に入ったうえ、住人に出刃包丁を突き付けたり、住人の手足を縛り、猿ぐつわをはめたりして、カメラ及び現金を奪い取る強盗事件を起こした。被告人は、同年一〇月末ころ、今治市に帰ったが、昭和四一年三月一二日、逮捕され、その強盗事件により、昭和四二年三月一三日、高松高等裁判所で、懲役三年執行猶予五年(付保護観察)の判決を受けた。被告人は、その後、再び今治市の実母のもとで生活するようになり、昭和四三年九月六日、Dと婚姻し、その間に長男E及び長女F子をもうけたが、昭和四八年一月一八日、Dと協議離婚し、F子を引き取った。

被告人は、昭和四六年七月ころ、今治市にある実母が経営する旅館に宿泊していたBと知り合って懇意になった。被告人は、同年一〇月ころ、今治市でスナック「乙山」を開店し、その後、同店でバーテンをするようになったBと同棲するようになり、昭和四九年四月二九日に結婚式を挙げ、昭和五〇年四月二九日に入籍し、昭和五一年春ころにDと一緒に生活していたEを引き取り、実母、B、E及びF子と一緒に生活するようになった。ところが、被告人は、同年九月ころ、実母が経営する旅館が倒産すると、実母の債務の保証人となっていたことから、六、七十万円の借金を抱えて「乙山」を廃業せざるを得なくなり、夜逃げ同然の状態で松山市に引っ越し、Bは、土木作業員をして月収約二〇万円を得るようになった。被告人は、昭和五二年二月一日、長男Gが誕生したので、Bの収入だけでは一家の生計を維持するのが難しくなったことから、生活費を稼ぐため、松山市でホステスとして働くようになった。しかし、被告人は、昭和五三年三月ころ、Bが愛媛県大洲市で実弟が経営する電話架設業を手伝うことになったため、Bや子供らと一緒に大洲市に引っ越し、ホステスを辞めた。被告人は、それからは専業主婦をしていたが、同年一二月一二日、長女H子が生まれ、一家の生活が苦しくなったことから、裾上げ、ボタン付けなどの内職(月収約三万円)をするようになった。しかし、Bは、当初、月給が約一七万円であったが、次第に収入が増え、昭和五六年ころには、手取りで約二七万円になった。

被告人は、昭和五四年二月ころから、ダイヤモンドリングなどを買う代金に充てたりするため、Bに内緒で、大洲市にあるサラ金会社から自分又はB名義で借金を重ねるようになった。そして、Bは、昭和五六年三月ころ、大洲市《番地略》にある新築一戸建分譲住宅(以下「被告人の自宅」という。)を代金約一四〇〇万円で購入し、そのうち頭金四〇〇万円をBの実弟から弁済期及び利息を定めずに借り、残額を住宅ローンで賄った。また、Bは、駐車場用地として隣地約八坪を買うことにし、弁済期及び利息を定めずに、家族ぐるみで付き合っていたIから一〇〇万円を借りた(なお、Bは、その後、五万円くらい利息を支払ったが、Iから支払いの催促を受けたことや、被告人から催促があった旨聞いたことはなかった。)。そのため、被告人は、新たに毎月約七万円の住宅ローンを支払わなければならなくなった。被告人は、同年六月中旬ころから、松山市にあるスナック「丙川」で、「丁子」という源氏名で、ホステスとして働くようになったが、Bに対し、自分の収入の使途を話さなかった。Bは、被告人から勧められて、同年中に「丙川」に行った。それから、被告人は、同年一二月末ころ、「丙川」を辞めたが、その後も頻繁にKなど「丙川」で知り合った客と松山市で遊興した。そして、被告人は、昭和五七年一月ころから、松山市にあるマンションを借りたいと思うようになった。

被告人は、昭和五七年八月一九日ころ、身長が百五十二、三センチメートル、体重が五五から五七キログラムであった。

2 被告人とKとの交際状況

被告人は、昭和五六年七月末か八月初旬ころ、同年六月ころから「丙川」に客として来ていた松山市で妻及び子供二人と生活しているKと初めて肉体関係を持ち、以後、KがBとは全く異なるタイプの男性であったことから、Kに強く惹かれるようになり、一週間ないし一〇日に一回の割合で肉体関係を持つなどして親密な交際をするようになった。被告人は、Kに対し、自分について、本名は「L子」、丁原高校を卒業しており、独身で、約一年前に約五年間同棲した男性と別れ、現在は大洲市の徳森にある姉夫婦の家に居候しており、定期預金四〇〇万円を姉に管理させている、大衆酒場に飲みに行ったことがない、実母は高松市で割烹店とビジネスホテルを経営しており、毎月一二万円ずつ仕送りしてくれる、姉の嫁ぎ先であるM家は大洲市の平野と徳森に家を持っており、平野の家には義母とお手伝いさんが住んでいる、姉の夫は戊田中央病院の事務長で、月給が一五〇万円ある、姉は甲田幼稚園の役員をしている、高級クラブを経営しているおばさんが今治の方におり、果樹園か農園をやっているおばさんが東北の方にいるなどと嘘を付いていた。また、被告人は、Kに対し、毎日姉からタクシー代として一万円をもらっている旨言って、時々、松山市から被告人の自宅までタクシーで帰ったり、Kと一緒に砥部焼の絵付けができる所に行った際には、皿の上に和歌を書いたりして、良家の子女で、教養があり、婚期の遅れた独身女性であるかのように装っていた。そのため、Kは、被告人が婚期の遅れた良家のお嬢さんであると思っていた。

被告人は、昭和五七年二月二〇日ころ、Kと口喧嘩をし、一週間から一〇日ほどKと連絡を取らず、何とか連絡を取ったKと会ったものの、その後しばらくは、Kと会わなかった。しかし、被告人は、同年三月一六日のKの誕生日に、匿名でKが勤務する会社にケーキを届け、同月一七日、被告人からだと思って電話をかけてきたKと会い、再び交際を始めた。

Kは、昭和五七年春ころ、社内で神戸店へ異動する話が出始めたので、同年四月ころから、被告人に対し、神戸店へ転勤するかもしれない旨言うようになり、その後も度々転勤の話をした。これに対し、被告人は、自分には夫と四人の子供がおり、神戸市まで付いていくことができなかったが、Kと別れたくなく、Kが転勤した後も、松山市で会って交際を続けたいと思うようになった。また、被告人は、同月ころ、Kに対し、松山市にあるマンションを借りたい旨言って、Kと一緒に松山市の松山城ロープウェイ乗り場付近にあるマンションを見に行ったものの、気に入らなかったことから借りなかった。被告人は、その後も、Kに対し、四、五回、マンションを借りたい旨言ったが、特に急いでいる様子はなかった。被告人は、同年五月末ころ、Kが勤務する会社の神戸店の商品の展示会の手伝いのために出張した際、神戸市や兵庫県明石市でKと一緒に三泊したりし、同年四月下旬ころから同年六月二三日ころまで、再び「丙川」で働いたものの、その後は全く働いていなかったのに、Bには同年七月初旬ころに「丙川」を辞めてフリーになった旨言ったりして、一週間に二、三回の割合で、夜間、松山市まで行ってKと会い、自ら積極的かつ旺盛に肉体関係を重ね、同月半ばころからは、しばしば、Bに無断で外泊し、翌日の午後や夕方に帰宅するようになった。しかし、被告人は、Bとも週に約二回の割合で性交渉を持っていた。他方、被告人は、Kの歓心を買い、その愛情をつなぎ止めるため、Kに対し、「もう別れた方がいい。」「別れる潮時だ。」と言ったり、同年八月ころからは、大洲市にいる小児科医との縁談を薦められている旨言ったりし、「見合いの話があり、断るので、居り辛いから松山にアパートを借りたい。」などと言うようになった。これに対し、Kは、被告人のことが好きで、積極的に別れる気はなく、被告人が神戸市まで付いてくる様子は見えなかったものの、被告人が神戸市に来て、転勤後も交際が続けば良いと思っていた。

被告人は、Kが交際費の殆どを負担していたものの、Kから決まった現金などを渡されることはなかったが、Kに対し、金銭的な不満を言うことは全くなかっただけでなく、逆にセーター、ポロシャツ、靴下、ネクタイ、ズボン、背広上下、腕時計など一〇点くらいをプレゼントしたりした。

3 被告人とA子との関係

被告人は、客として飲みに行った松山市にあるスナック「酒房乙野亭」(以下「乙野亭」という。)が気に入ったので、「乙野亭」でホステスとして働いていたN子の紹介で、昭和五七年三月五日ころから同年四月二日ころまで、「乙野亭」でホステスとして働いた。被告人は、この間、「乙野亭」でホステスとして働いていたA子と知り合った。そして、被告人は、A子について、店内のテーブルの上に置かれていた帳面に記載された各ホステスごとの売上高の表を見て、「乙野亭」の売上げナンバーワンの売れっ子ホステスであることを知り、また、初出勤の際、店長のOから七〇〇万円くらい貯めている旨聞かされたりしたので、お金をたくさん貯めていると思っていた。被告人は、「乙野亭」を辞めてから、しばらくの間、A子と交際していなかったが、同年七月上旬ころ、松山市《番地略》にある甲野ビル七〇三号室のA子方を初めて訪れ、A子が立派なドレッサーなどの豪華な家具を所有していることを知り、豪華な生活を送っているA子を羨ましく思った。

4 被告人が荷物を運ぶことを頼んだ状況など

被告人の実母の従姉妹で、被告人と家族ぐるみで親密な交際をしていたP子の夫であるCは、昭和四六年ころから運送会社で長距離トラックの運転手をするようになり、昭和五七年ころも引き続きその会社で同じ仕事をしていた。そして、Cは、同年八月一九日までに四回くらい、被告人から頼まれて、被告人が引っ越しをした際、荷物運びを手伝った。Cは、同年五月か六月ころ、被告人から「荷物ちょっと運んでもらう用事がある。洋服だけ運ぶから、乗用車で運べると思う。友達の女の人が男の人から逃げようとしているから、その手伝いをする。家具はまた後から頼むことがあるかもしれん。」と言われたが、その後、「この間の洋服を運ぶ話どうなったの。」と聞くと、「またひっついたみたいだから、あの話はもういいわ。」と言われた。

P子は、昭和五七年七月初旬から中旬までの間の昼ころ、被告人からの電話を受け、「乗用車で運べる荷物(衣類か何か)じゃあが、いつか主人の休みの時に運んでくれんじゃろか。」と言われたので、「まあ、主人に聞いてみとかい。」と言った。そして、P子は、Cに対し、その旨伝えた。

Bは、昭和五七年七月末か八月上旬ころ、普通貨物自動車(愛媛四四ま一五二八。以下「ボンゴ車」という。)で松山市まで被告人を迎えに行った際、被告人の自宅に帰る途中の車内で、被告人から「悪いパトロンから逃げようとしている女友達がおるけん、逃げる際には家財道具の引っ越しなどを手伝ってほしい。」と言われ、Cも一緒に手伝ってくれる旨も言われた。そして、Bは、その一週間か一〇日後、そのことについて尋ねると、被告人から「その女の人はすっかり酔っぱらってしまっていたり、今はそれどころじゃないなどと言って延びている。夜逃げする時には、彼女から電話があることになっているから、その時には頼まい。小遣いももらってあげるから。」と言われ、「引っ越しするんだったら、土曜日の晩か、日曜日の昼間がいいぞ。」と言うと、「日曜はいかん。目立つからいけん。」と言われた。また、Bは、被告人から「パトロンがもうすぐに刑務所を出るらしいんよ。」と言われた。

5 被告人の負債の状況など

被告人は、「丙川」で月平均約二〇万円、「乙野亭」で約四〇万円の収入を得たが、その殆どを衣服費などに充てたり、時々、松山市から被告人の自宅までタクシーで帰ったりしたことから、昭和五六年九月ころから昭和五七年六月ころにかけて、Bに内緒でサラ金会社七社から合計約八五万円を借り、同年一月以降、住宅ローンも含めて毎月一〇万円以上の返済を強いられるようになった。被告人は、サラ金会社に対し、利息だけを返済していたが、滞納はなく、支払いを催促されることはなかった。しかし、被告人は、自分の名義で新たに借金をすることが困難になったので、同年七月、知人のQ子から健康保険被保険者証及び印鑑を借りて、その名義でサラ金会社三社から合計約五〇万円を借り、P子の承諾を得たうえ、同月、P子名義でサラ金会社四社から合計約八〇万円を借りた。この結果、被告人は、同年八月にはサラ金会社からの借金の合計額が約二〇〇万円にもなり、サラ金会社から借金しては別のサラ金会社に利息を返済する状態であり、被告人が働かない限り、元本を返済できる見込みはなく、経済的に追いつめられた状態であった。また、被告人は、同年五月ころ、Iに対し、同年八月のお盆のころに借金を返済する約束をしたが、P子名義で借金した後、同年九月以降に返済すれば良いことになった。

6 被告人が部屋を賃借した状況など

被告人は、昭和五七年八月五日、Kと食事をした後、一緒に宿泊して肉体関係を持ち、翌六日午前八時二〇分ころ、Kと別れた。被告人は、同日午前一一時三〇分から午後零時までの間、Kが勤務する会社に電話をかけ、公衆電話から被告人宛に電話をかけ直すよう指示し、Kから電話がかかってくると、Kに対し、命令口調で「直ぐにマンション探して。明日には契約したい。明日一〇時半ころ、そちらに行くから。」と言った。そして、被告人は、同月七日午前一一時ころ、国鉄松山駅でKと会い、駅の構内にある現金自動支払機を操作し、「高松の母が金を五〇万円振り込んでくれたと言ったのに、まだ入ってなかった。」と言ったりした後、不動産会社から松山市《番地略》にある丙山ビルの紹介を受け、その六階の二DKや三DKタイプの部屋を見て、二DKタイプの六〇四号室(以下「被告人方」という。)を借りたい旨言って、不動産会社宛の「賃貸住宅入居依頼書」の氏名欄に「L子」、現住所欄に「大洲市《番地略》」、電話番号欄に「〇〇〇〇(〇)〇〇〇〇」、本籍欄に「高松市《番地略》」、年令欄に「30」などと書き入れ、不動産会社から「将来、水商売等はしませんか。水商売だと、夜遅く帰り、風呂等使われると、他の入居者に迷惑がかかるのですが。」と聞かれると、「水商売はしません。」と答えた。そして、被告人は、Kが連帯保証人になったうえ、L子名義で、一か月賃料三万八〇〇〇円及び共益費四〇〇〇円の約定で被告人方を賃借し、「建物賃貸借契約書」の氏名欄に「L子」、住所欄に「高松市《番地略》(本籍)」などと書き入れたが、電話番号欄には何も書き入れなかった。それから、被告人は、同月中旬ころに入居することとして、日割計算した八月分の賃料二万一〇〇〇円(共益費を含む。)、保証金一一万四〇〇〇円及び手数料三万八〇〇〇円の合計一七万三〇〇〇円をP子名義で借りた現金から不動産会社に支払い、被告人方の鍵を二個受け取り、そのうち一個をKに渡した。それから、被告人は、Kと一緒に宿泊した。被告人は、Kに対し、被告人方を借りた理由について、「寝泊まりするため借りたんじゃない。気を休めるためマンションを借りたんだ。」と言った。

7 本件犯行直前の被告人とKとの交際状況

被告人は、昭和五七年八月八日午後零時過ぎころまで、Kと一緒にいた。被告人は、同月九日午前九時ころ、Kが勤務する会社に電話をかけ、「八日の一時から実は見合いのRさんと約束があったのだけれど、実際には午後二時ころのバスに乗って帰ったので遅れた。帰ってみたら、姉が呼んだということで、高松から母さんが板さんと来ていた。私は、見合いのことで三日くらい考えさせてくれと言って、大洲を出て、昨日の午後九時ころに松山の全日空ホテルに着いた。そして、今、全日空ホテルに泊まっている。母と板さんが全日空まで送ってくれて、二人はその足で高松まで帰っていった。母さんにはみんな打ち明けてマンションを借りたことも言っているけれども、姉さんにはマンションのことは言っていない。」と言った。Kは、同日午前一〇時過ぎころ、全日空ホテルの被告人が泊まっている部屋まで行くと、被告人から「三日間泊まるつもりだ。母は、私の気持ちをよく分かってくれるけれども、姉は世間体のことだけ考えて、早く結婚しろと言って、母と姉が揉めた。」と言われた。それから、被告人とKは、その部屋に泊まった。Kは、同月一〇日、出勤して、同年九月一日付けで神戸店店長として異動を命じる旨の内示を受けた。そこで、Kは、同年八月一〇日午後二時三〇分ころ、全日空ホテルの被告人の部屋に行き、被告人に異動の内示があったことを話した。しかし、被告人は、目に見えてがっかりした様子は見せず、やっぱりという感じであった。被告人は、このころから、Kに対し、母親が買って、高松の実家にある自分の部屋に置いてある家具などを、母親が被告人方まで送ってくれる旨言うようになった。そして、被告人は、Kが荷物を入れるときには手伝う旨言うと、「大した荷物ではないし、運送屋でもできることだから。」「あなたは、忙しいからいい。」と言った。Kは、同日、被告人に対し、店長会議が福井県敦賀市で同月一九日と同月二〇日に行われるので出張し、帰りに家を探すので、同月一八日に行って、同月二二日に松山に帰る旨言い、全日空ホテルの被告人の部屋に泊まった。Kが、同月一一日午前八時一〇分か一五分ころ、出勤しようとすると、被告人は、Kの前で初めて涙を流し、「あなたは優柔不断だ。神戸について来いとも言わん。見合いも、止めとも、せえとも言わん。」「見えん場所から見送る。」と言った。被告人は、同月一三日、Kからの電話を受けると、「ちょうどいい。荷物があるから来て。」と言って、Kを大洲市まで呼び寄せ、午後一時ころ、Kが運転する車に五、六個の紙袋を持参して乗り込み、松山市に向かった。被告人とKは、松山市で、食事をした後、雑巾、バケツ、ゴミ箱、洗剤などを買って、被告人方に行った。そして、被告人は、その紙袋の中からカーテン、玄関マットなどを取り出したり、掃除をしたりした。さらに、被告人は、部屋に入れる家具などについて、「いつ運ぼうかな。二十二、三日にしようかなあ。」「家が狭いから、全部は入らない。ダブルベッドなどはとても入らない。送ってもらうのは、少しだけにするわ。」などと言った。それから、被告人とKは、宿泊場所に向かったが、被告人は、その途中で、Kに対し、「マンション借りたこと、誰かに言うた。」と尋ねると、Kから「次長が知っているかもしれない。」「次長には、Jちゃんが部屋借りたいと言っていたけど、それは取りやめたということにしておくから。」と言われ、「誰にも言うてないから、内緒にしててね。」と言った。そして、被告人とKは、同日、一緒に宿泊して肉体関係を持った。Kは、同月一四日朝、被告人と別れ、同日か同月一五日、被告人方に行ったが、変わったことはなかった。Kは、同月一七日午後一時から二時までの間、被告人に電話をかけ、午後七時ころ、車で大洲市まで被告人を迎えに行き、そこから松山市に向かった。被告人は、その途中で、「あなたが出張から帰る二二日ころには、もうマンションに家具が入っている。」と言った。そして、被告人とKは、同日、松山市で一緒に宿泊して肉体関係を持った。Kは、同日、被告人に対し、同月二七日の夜に船で神戸市に行く旨、同年九月二日から四日まで、挨拶回りのため松山市に来る旨言った。Kは、同年八月一八日午前八時三〇分ころ、被告人と別れて出勤した。被告人は、その際、Kから「部屋に本当に荷物を入れるんか。」と聞かれ、「家が狭いから全部入らない。」「ダブルベッドなどとても入らない。」「あなたが出張から帰るまでにはきちんと荷物が入っているじゃろう。」と言った。

8 本件犯行直前の被告人とその家族の状況など

G及びEは、昭和五七年八月七日ころから、泊まりがけでC方に遊びに行った。Bは、同月一三日の夜、H子及びF子を連れて、C方に遊びに行った。被告人は、同月一四日の夕方、C方に遊びに行った。被告人は、同月一五日、C方にF子及びH子を残し、B、E及びGらと一緒に内海村にあるSの妻の実家に泊まった。被告人は、同月一六日、子供らと一緒に近くの海岸で海水浴をした後、午後七時か八時ころ、B及び子供らと一緒に被告人の自宅に帰った。

9 A子の生前の状況など

A子は、昭和二六年一月三日、生まれた。A子は、実家で、はまちの養殖を手伝ったことや、毎日のようにゴルフの練習をすることもあった。A子は、将来は、実家のある高知県宿毛市で、喫茶店を経営するつもりであった。A子は、A子方で、「リー」という名の茶色のポメラニアンを飼っていた。A子は、昭和五七年一月中旬ころ、Tと肉体関係を持ち、同年六月ころから、Tと親しく交際するようになった。A子は、同年八月一九日の約二か月前ころ、甲野ビルの八階にある部屋からA子方に引っ越した。A子は、車の鍵とA子方の鍵を同じキーホルダーに付けてバッグに入れており、A子方では鏡台の左側の上から二番目か三番目の引き出しの中にそのバッグを保管していた。

A子は、昭和五七年八月一九日午前六時ころ、起きて朝食を作り、午前七時ころ、前日から泊まっていたTを見送り、Tから「今日も帰って来るよ。」と言われ、「早く帰って来てね。」と言った。A子は、同日午前一一時ころ、松山市にあるペットショップ「戊原」に「リー」を連れて行って「リー」のシャンプーを頼み、「リー」を預けてA子方に帰った。そして、A子は、同日午後零時四五分ころ、再び「戊原」に行き、「リー」を引き取って、A子方に帰った。

Tは、昭和五七年八月一九日午後二時三〇分ころと午後四時から五時までの間に、それぞれA子方に電話をかけたが、誰も出なかった。

10 被告人とA子との共同経営の話など

N子は、敷金や礼金がいらない設備付きの店舗があったか否か、それを被告人に紹介したか否か記憶がなく、被告人がA子と店を共同経営する話を聞いた記憶がない。また、被告人は、A子とスナックを共同経営する話を誰にもしたことがなかった。A子は、T、友人のU子やV子に対し、スナックやクラブを経営したい旨話したことがなかったが、Oに対し、「もう独立して、店を持たないといけない。」と言ったことがある。しかし、Oは、被告人から店を持ちたい旨言われたことはなく、被告人とA子とが「乙野亭」で同じテーブルにつくなどして親しく話す機会がなかったと認識している。

11 A子が死亡する直前の状況など

被告人は、昭和五七年八月一九日、「丙川」でホステスとして働いていたころに知り合ったWと一緒に昼食をとり、物を買ってもらうつもりで松山市にあるW宅を訪れたが、Wがいなかったので、予定を変えてA子方に行くことにし、土産にメロンを買って、A子方を訪れた。A子は、白色タンクトップと部屋着として時々はいていたピンク色ジョギングパンツを着ており、昼寝をしようとしていた旨言ったものの、被告人を部屋に招き入れた。そのとき、被告人は、A子方に入るところを誰にも見られなかった。被告人は、薄いクリーム色布張りソファー(以下「本件ソファー」という。)のある部屋に案内されて、本件ソファーに座った。A子は、コーラの入ったコップとリンゴを載せた皿をテーブルに置き、そのリンゴを果物ナイフで切った。それから、A子は、「昼寝するのにちょうどいいわ。」と言って、洋酒を持ってきて、コップに注いで飲み、被告人も、コーラにウイスキーを入れて飲みながら、A子と世間話をした。

12 A子の死体を梱包した状況など

被告人は、A子が死亡した後、A子の死体を隠すことを考え、運び易くするため、A子方にあった幅約五センチメートルのガムテープで、二重に幅約六センチメートルにして死体の両眼下方から上口唇に達する状態で、両頬にかけて長さ約三二センチメートルにわたって貼り付け、A子方にあったポリエチレン製透明洗濯袋を顔面から胸にかけてかぶせたうえ、両手首を体の前で右手を上にして交差させ、両膝を正座させるような形に折り曲げた。それから、被告人は、死体の上膊部で三重に、両手首で四重に、両膝の折り曲げた部分で三重に、膝下で四重に、足首で四重に、それぞれA子方にあったナイロン製縄で緊縛し、両膝の折り曲げた部分の緊縛に平行する状態で右ガムテープを二周させて貼り付けたうえ、A子方にあった縦二二三センチメートル、横一七七センチメートルの毛布を死体にかぶせ、その上から、頚部、上膊部、腹部及び大腿部でそれぞれ一重に、下腹部で二重に、大腿部で三重に右ナイロン製縄で緊縛し、下腹部から大腿部にかけて縦縄をかけ、頭部に長さ約三九センチメートルの、腹部に長さ約四六センチメートルの、大腿部に長さ約七五センチメートルの、膝部に長さ約三二センチメートルの、下腿部に長さ約三三センチメートルの右ガムテープを雑然と貼り付けたりして死体を包み込んだ。さらに、被告人は、その上からA子方にあった縦二〇三センチメートル、横一五七センチメートルのタオルケットをかぶせ、死体の頭部及び下腿部に当たるタオルケットの端末を巻き込ませたうえ、右ナイロン製縄で縄目を四か所に作って二重に縛り、縦縄を掛け、縄を固定するため、下腿部側縄の上方に長さ約一七センチメートルの、そこから約一五センチメートル離れた縄の上に長さ約一七センチメートルの、そこから約一四センチメートル離れたところの縦縄の下側のタオルケットの合わせ目に長さ約二〇センチメートルの、そこから約一六センチメートル離れた縄目の下側に長さ約一四センチメートルの右ガムテープを並列状態に貼り付けたりして外部から死体とは判別できないように梱包した。それから、被告人は、A子方玄関から梱包された死体を運び出し、甲野ビル非常階段の七階の踊り場まで梱包された死体を運んだ。そして、被告人は、非常階段の七階に座っていたが、しばらくして、A子方に戻り、自分がA子方にいた痕跡を消すため、テーブルに置いてあったコップや皿を台所の流しに片付けたり、濡れていたテーブルの上をきれいに拭いたりし、さらに、鏡台の引き出しから車の鍵と一緒にキーホルダーに付けられたA子方の鍵、預金通帳二冊及び印鑑一個を奪い取り、鏡台のテーブルの上に置いてあった札入れを奪い取った。それから、被告人は、鍵をかけてA子方を出て、再び非常階段の七階に座っていた。なお、被告人は、その日のうちに、札入れの中に一〇万円が入っていることを確認した。

13 被告人がB及びCに対し、引っ越しの手伝いを頼んだ状況など

被告人は、昭和五七年八月一九日午後七時前ころまで、非常階段に座っていたが、午後七時前ころ、近所にある公衆電話から、Cに電話をかけ、Cに対し、「女の友達がパトロンから逃げるので、すぐ引っ越しする。家具を四つくらい運んでもらうことになる。今からすぐ、レンタカーを借りて、九時にこっちへ来てくれないか。場所は、三越前の電車通りを真っすぐ行って、道後に行くのとは反対の方に折れて、勝山ビルかホテルというのがあるから、そこをちょっと行くとYMCAという大きな看板の出たビルがあるからそこまで来て。日当は出すから。」と言い、さらに、電話を替わったP子に対し、「あなたにも、銀行に行ってほしいことがあるのよ。」と言うと、「そしたら、二〇日にして。主人の休みの日になっているから、主人に乗せて行ってもらおうわい。」と言われた。続いて、被告人は、Bに電話をかけ、Bに対し、普段と変わらない落ち着いた様子で、「今から、前から言っていた夜逃げの引っ越しする言うけん、来てくれんじゃろうか。」「三越の前から電車の通りを通って行くと、道後に行く道と一一号線に抜ける道との十字交差点があるから、そこを右折して木の立っているロータリーの道を右の方向いて行ってちょうだい。三つ目か四つ目の角に来ると、右側にYMCAと書いた長い看板の架かったビルがあるから、そこの駐車場に来て。」と言った。それから、被告人は、非常階段の七階などで、B及びCが来るのを待った。

14 被告人が時間を稼ぐためにTに嘘を言った状況など

Tは、昭和五七年八月一九日午後七時ころ、A子方に来て、ドアを叩いたり、「Aコ。Aコ。」と呼んだりしたが、何の応答もなく、近所を捜してもA子が見つからなかったので、甲野ビルの管理人から合い鍵を借りて、A子方に入った。被告人は、同日午後七時三〇分ころ、TがA子方に入ったのに気付くと、A子方まで行き、家具などを運び出す時間を稼ぐため、Tに対し、「Tさんでしょう。」「最近ここに替わってきた者です。」「彼女に頼まれて車のキーを預かっています。急用ができたから出て行くけれども、唐子浜の入口に九時半に来て待っててくれるようことづてを頼まれました。女の人二人で出て行って急いでいるようでしたよ。」と嘘を言って、A子が所有する乗用車の鍵を渡し、Tを今治市にある唐子浜まで向かわせた。

15 家具などを運び出した状況など

Bは、昭和五七年八月一九日午前七時三〇分ころ、仕事に出かけ、午後六時ころ、帰宅してシャワーを浴び、子供らのために即席ラーメンを作ったりした。Bは、同日午後七時前ころ、被告人からの電話を受け、午後七時ころ、Gを助手席に乗せたボンゴ車を運転して出発し、午後八時すぎころ、甲野ビルに到着した。被告人は、BがGを連れて来たのに気付くと、Gに対し、「ああG君も来たん。G君はおってよ。」などと言って、BだけをA子方まで案内し、Bに対し、Cも手伝いに来る旨言った。Bが被告人と一緒にA子方に入ると、台所の流し台の上に食器類が山積みになっていた。それから、被告人は、Bに対し、人を殺した旨話し、Bからどこで殺したのか聞かれると、Bを本件ソファーのある部屋まで連れていき、「ここで殺したんよ。この血がその時の血よ。」と言って本件ソファーの上を指差した。そして、被告人は、Bから殺した理由を聞かれると、「二人で話しよっていると、いきなり女の人が立ち上がって、果物ナイフを持ってきて、「あんたなんか殺しても怖くない。」と言って飛びかかってきたので、無我夢中で揉み合っているうちに、相手の首を手で締めて殺してしまった。」「女の人おかしかったんよ。いきなり立ち上がって、ナイフを持って私の方に突き刺してきたんよ。薬でも常用しているんじゃない。」などと言い、Bから何度も自首を勧められても、正当防衛などと言ってこれを断り、「私に考えがある。」と言った。被告人は、Bから死体のある場所を聞かれると、Bを非常階段の六階と七階の中間の踊り場まで案内し、敷布様のもので巻かれた人間くらいの大きさの包みを見たBから「これがそうか。」と言われると、「そうよ。」と言った。そして、被告人は、Bから「どがいするんぞ、これ。」と言われると、「ちょっと車まで運んで。」と言い、Bが嫌がると、「それならいい。他の人に頼むから。」と言ったりしてBを承諾させ、Bと一緒に死体をボンゴ車に積み込んだ。それから、被告人は、再びBと一緒にA子方まで行き、Bから「どがいするんぞ。人を殺しといて、引っ越しもなかろが。」と言われると、「考えがあるんよ。」などと言い、再びBから自首を勧められても、「何なら、あんた、帰ってもかまんよ。」と言った。しかし、Bは、既にボンゴ車に死体を積んでいたこと、被告人のことが心配だったことから、被告人の手伝いをするしかないと思った。被告人は、Bに対し、「荷物を運んで。」などと言って、Bに指示して、A子方の台所にあったテーブル、椅子などをボンゴ車に積み込んだ。

Cは、予定どおり、昭和五七年八月一七日から一九日にかけて、仕事で名古屋まで往復し、同日午後零時ころ、自宅に帰った。なお、Cは、同月二〇日は仕事が休みで、同月二一日からは仕事で東京まで往復する予定であった。そして、Cは、同月一九日午後二時三〇分ころから四時ころまで子供を連れて海に泳ぎに行き、帰宅してからパチンコ店に行き、午後六時三〇分ころ、帰宅した。Cは、同日、帰宅後、銭湯と食事に行く用意をし、一〇分後くらいに出かけようとしていたところ、被告人からの電話を受け、翌日が休みであったことや被告人の声が急いでいるように思えたことから、被告人の頼みに応じることにした。そこで、Cは、電話の番号案内で今治市にあるレンタカー会社の電話番号を尋ね、「ニッポンレンタカー」(午後八時営業終了)の紹介を受けたので、午後七時一〇分ころ、「ニッポンレンタカー」に電話をかけると、一トン半トラックがあったので、午後七時三〇分ころ、「ニッポンレンタカー」に行って、料金など八五五〇円を支払って一トン半トラックを借りた。Cは、そのトラックを運転して、同日午後八時四五分ころ、甲野ビルに着いた。被告人は、CをA子方まで案内し、Cに対し、Tが唐子浜まで往復する時間を計算したうえ、「一〇時までに出してくれ。」「出る物だけ出してくれ。」などと言い、不審に思ったCから「お前大丈夫か。」と聞かれると、「かまんのよ。ここの人は、どこかの飲み屋のナンバーワンで、月に五〇万は軽く稼いでおるんよ。私は、ここの人に頼まれておるし、ここの人は旦那から別れるためにどこかへ旅行に行っている。ほとぼりが覚めたらまた帰ってくるんよ。」と言った。そして、被告人は、自分でサイドボードやタンス内の品物を外に出し、敷布でくるんでまとめたり、ナイロン袋に入れたりし、B及びCに対し、「パトロンが帰ってくるから、一〇時半ころまでには終えてちょうだい。」「ベッド、ソファー、ガラステーブルはいらん。」などと言って指示し、同日午後八時ころから午後一〇時過ぎころまでの間に、現金三万〇〇二〇円、米国通貨四ドル一セント及び整理ダンスなど別紙被害品内訳一覧表1ないし96、98ないし227記載の三三四点をA子方から運び出し、ボンゴ車及びCが運転する一トン半トラックに積み込んだ。被告人は、その際、現場に指紋が残らないように配慮して軍手をはめ、B(新品)及びC(左右が揃っておらず、そんなに汚れてはいなかったが、新品ではなかった。)にも軍手を渡したが、Bは当初は使ったものの、滑ってよく掴めないので、そのうち使わなくなり、Cは滑るので使わなかった。他方、被告人は、玄関から出せない旨言われた和ダンスの上、洋服ダンス及び寝室にある洋服ダンス並びにA子の飼い犬、ダブルベッド、本件ソファー及びガラステーブルを運び出さずにA子方に残し、また、Cに対し、電子レンジを持って帰っても良い旨言って、Cに電子レンジを持ち帰らせることにした。最後に、被告人は、A子方の玄関ドアにある新聞受けにA子方の鍵を放り込んだ。

被告人は、B及びCを被告人方に案内し、「大きい物は、ちゃんと整理して置いて。」と言ったりして、被告人の指示で次々と整理し、昭和五七年八月二〇日午前零時ころまでに、Cに持ち帰らせることにした電子レンジを除いて、A子方から運び出した家具などを被告人方に運び込んだ。被告人は、Bから被告人方が誰の部屋か聞かれると、「夜逃げする女の人の部屋だ。」と言った。被告人は、被告人方で、「これ取っといて。」と言ってCに現金二万円を渡し、丙山ビル一階でCと別れる際、Cを食事に誘ったが、断られたので、「そしたら、これ食事代にでもして。」と言って五〇〇〇円札一枚をCの胸ポケットに入れ、「このことは内緒にしておいてよ。」「明日は、P子と子供も連れてここに来てよ。」と言った。

被告人は、昭和五七年八月二〇日午前一時ころ、自宅に帰っていたCに電話をかけ、必ずP子を連れてくるように念を押したりした。

Tは、昭和五七年八月一九日午後一〇時五〇分ころ、唐子浜の入口を出発し、同月二〇日午前零時ころ、A子方に戻った。

16 死体遺棄の状況

被告人とBは、A子の死体をボンゴ車に積んだまま、昭和五七年八月二〇日午前一時ころ、被告人の自宅に帰り、午前一時二〇分ころ、死体を捨てるため、再度、ボンゴ車に乗って出発して松山市方面に向かい、愛媛県小田町や広田村などで死体を捨てる場所を探した。そして、被告人は、Bから死体を被告人方に置くことを提案されると、「アパートはやっぱりいけん。」と言って断り、愛媛県久万町方面に行くことにした。それから、被告人は、その途中で、同日午前三時三〇分ころ、愛媛県伊予郡砥部町の国道三三号線道路端でシャベル二本を見つけて拾い、ボンゴ車に積み込んだ。そこで、被告人及びBは、死体を土の中に埋めることにし、同日午前四時三〇分ころ、松山市久谷町にある山林で、右シャベルを使って穴を掘って死体をその中に置き、その上から土をかぶせて埋めたうえ、掘った跡が分からないように平らにして付近に落ちていた木の枝をその上にかぶせた。それから、被告人及びBは、同日午前六時ころ、被告人の自宅に帰った。

17 A子名義の銀行口座から現金を引き出した状況など

被告人は、A子から奪い取った預金通帳及び印鑑を使って、A子名義の預金口座から現金を引き出そうと考えたが、払戻手続の際、自分の筆跡や指紋が残り、犯行が発覚することを恐れ、P子に払戻手続をさせることにした。被告人は、昭和五七年八月二〇日午前七時三〇分ころ、Cに電話をかけ、昼ころに丙川ビルまで来るように言った。Cは、同日午前八時ころ、「ニッポンレンタカー」まで借りていた一トン半トラックを返しに行き、午前一一時ころ、自家用車にP子及び子供二人並びにF子及びH子を乗せて、自宅を出発した。そして、Cは、同日午後零時三〇分ころ、丙山ビルに着き、被告人方へ行った。被告人は、C及びP子らが来ると、「先に銀行へ行ってや。」と言って、子供らを被告人方に残し、C及びP子と一緒にCの自家用車に乗って、兵庫相互銀行松山支店まで行った。被告人は、「最初に残高証明をして出してよ。」「これ全部おろしてや。」と言って、P子に印鑑とA子名義の預金通帳を渡した。被告人は、兵庫相互銀行松山支店で、P子に指示して、普通預金払戻請求書の口座番号、名義人及び金額の各欄にボールペンで記入させたうえ、A子の届出印を押印させ、A子名義の口座から端数を残した現金六四万三〇〇〇円を引き出させた。それから、被告人は、P子と一緒にCの自家用車に戻り、その車内で、P子から引き出させた現金を受け取った。また、被告人は、「これ、ガソリン代にして。」と言って、Cに現金一万円を渡した。さらに、被告人は、C及びP子と一緒に、Cの自家用車に乗って、伊予銀行大街道支店まで行った。被告人は、その途中で、残高証明をして引き出すように説明した。被告人は、伊予銀行大街道支店で、通帳を見ながら、同様にP子に指示して、払戻手続をさせ、端数を残した現金一二万一〇〇〇円を引き出させた。それから、被告人は、P子と一緒にCの自家用車に戻り、その車内でP子から引き出させた現金、預金通帳や印鑑を受け取った。被告人は、C及びP子と一緒に被告人方に戻ると、A子から奪い取った家具を指差しながら、友達から預かっている旨説明し、A子から奪い取った洋服、セーター、スカート及び着物の帯などを出して、P子に対し、「全部、持って帰って。」と言ってタオルケットに包み、また、指輪などをP子らに渡した。さらに、被告人は、「これは焼いといて。」と言って、Cにアルバム三冊及びゴミを渡した。それから、被告人らは、レストランに行き、被告人の負担で食事をし、被告人は、その際、信用金庫に電話をかけてA子名義の口座の残高が約二五〇〇円であることを確認した。そして、被告人は、C及びP子らと別れ、被告人方に戻って、片付けをした。被告人は、同月二一日、A子名義の口座から引き出した現金のうち六五万円を伊予銀行大洲支店のB名義の普通預金口座に入金した。被告人は、その後、その殆どを逃亡中に引き出したが、サラ金会社への返済には充てなかった。

18 被告人がKに対して説明した状況など

被告人は、昭和五七年八月二〇日、被告人方に運び込んだ家具などを整理するとともに、Kが同月二二日に出張から戻った後、被告人方に立ち寄ることを予想し、K宛に「これが汐時ですから今日限りでお別れ致します。」などと書き、口紅を付けた置き手紙を台所のテーブルの上に置いた。Kは、同月二二日、被告人方に行き、そこにある家具などを見て、良い家具ばっかりで、見た目も新しかったので、驚いた。そして、Kは、置き手紙があるのに気付いて、これを読み、破って屑箱に捨てた。被告人は、同月二三日、その手紙を見たKから連絡を受けて待ち合わせをし、同日午後六時一〇分ころ、被告人方でKと会い、その際、そこにある家具などについて、「一枚板で作っとるんよ。」と言ったり、鏡台の上にある小物入れの中にいくつかのライターが入っているのを見せて「どれか欲しいのない。」と言ったり、ダイヤの指輪などを見せて「全部で三〇〇万円くらいはするんよ。」と言ったり、リング式になった金色のキーホルダーを見せて「これ舶来の品よ。」と言ったりしたが、Kが「ふーん。ええな。」と言うと、「あんた興味がないんじゃね。」と言った。そして、被告人は、Kから「ええ物ばかりじゃねえ。」と言われ、家具などのことを誉められると、「一〇年前に、お母さんが買ってくれ、高松の自分の部屋に置いておったのよ。」「高松の方の仕事の都合で一九日の夜一〇時ころ運んだ。運送屋と板さんとで運んだ。」「ようけ持ってきたけど、ベッドなんかは入らんので持って帰ってもらった。」「荷物を全部出したらお母さんが泣いておった。」「一〇年位前に買ったのだけれども、大事に大事にしていたから新品同様だ。」と言った。それから、被告人とKは、同日午後七時前ころ、被告人方を出て、食事をし、松山市で一緒に宿泊し肉体関係を持った。被告人とKは、同月二四日朝、別れた。

19 逃走後の状況など

被告人は、昭和五七年八月二四日、A子から奪った現金一三万〇〇二〇円を被告人方に残したまま逃走した。被告人は、同月二五日、伊予銀行大阪北支店で、B名義の普通預金口座から現金五九万円を引き出した。

Bは、昭和五七年一一月一七日、松山地方裁判所で、死体遺棄罪により、懲役一年六月執行猶予三年の判決を受けた。Bは、昭和五八年一一月二七日、裁判により、被告人と離婚した。

二  一の事実を認定した理由

1 Kの供述の信用性

Kの検察官(甲六四、一九三)及び警察官(甲六三、一四五、一四六)に対する各供述は、いずれも事件発生後一か月以内という記憶の鮮明な時期になされており、しかも、Kは、不倫関係とはいえ、できれば、被告人に転勤先の神戸市まで付いてきてほしいと思っていた旨供述し、右各供述調書が作成された後である昭和五七年一〇月二日に被告人からかかってきた電話でも、自首を勧めたり、食事や所持金の心配をしたり、会いに行こうと言ったりしていることからしても、右各供述調書が作成された時点でも、被告人に対して、未だ強い愛情を抱いていたと認められるから、あえてKが自分の記憶に反して被告人に不利な供述をしなければならない状況にあったとはいえない。さらに、Kのその供述内容は、被告人との交際中にあった出来事について、被告人の言動などを交えて、日時を特定して具体的かつ詳細に供述したものであり、特に不自然、不合理な点はなく、他方、被告人が逃亡中のため、被告人の取調べもなされておらず、捜査官が誘導できないものと考えられることからすると、Kの右各供述は、信用性が高いということができる。また、Kの公判廷での供述や検察官に対する供述(甲六五)は、はっきりしない点があるが、それが体験後一五年以上が経過した後になされたものであることからすれば、格別、不自然であるとはいえないし、他方、その供述内容は、信用性の高いKの検察官(甲六四、一九三)及び警察官(甲六三、一四五、一四六)に対する各供述と符合するものであることからしても、Kの公判廷での供述や検察官に対する供述(甲六五)は、信用性が高いというべきである。

2 Bの供述の信用性

Bの検察官(甲五一、五二、一九一)及び警察官(甲四八ないし五〇、一三九ないし一四四)に対する各供述は、いずれも事件発生後一か月以内という記憶が鮮明な時期になされており、しかも、Bは、そのころ、被告人と婚姻中であり、被告人の前夫との間の子であるE及びF子を養子として、自分との間の子であるG及びH子と分け隔てなく慈しみながら養育し、被告人とも週に二回程度は性交渉を持っており、家族ないし夫婦関係が破綻ないし冷却しているような事情は認められないことからすれば、あえてBが自分の記憶に反して被告人に不利な供述をしなければならない状況にあったとはいえない。さらに、Bのその供述内容は、被告人から引っ越しの手伝いを頼まれたことなどについて一貫しており、被告人から引っ越しの手伝いを頼まれた時期、場所、状況、被告人の発言内容などについて、具体的かつ詳細に供述したものであり、特に不自然、不合理な点はない。そして、Bは、本件犯行に引き続いて行われた死体遺棄の事実を認め、有罪判決を受けているのであって、真摯な反省の下に事実をありのまま供述する姿勢を示していること、実際にBの供述に基づいてA子の死体やA子の死体を埋める際に使ったスコップが発見されていること、他方、被告人が逃亡中のため、被告人の取調べがなされておらず、捜査官が誘導できないものと考えられることからすれば、Bの右各供述は、信用性が高いということができる。また、Bの公判廷での供述や検察官に対する供述(甲五三、五四)は、はっきりしない点があるが、それが体験後一五年以上が経過した後になされたものであることからすれば、格別、不自然であるとはいえないし、他方、その供述内容は、信用性の高いBの検察官(甲五一、五二、一九一)及び警察官(甲四八ないし五〇、一三九ないし一四四)に対する各供述と符合するものであることからしても、Bの公判廷での供述や検察官に対する供述(甲五三、五四)は、信用性が高いというべきである。

これに対し、弁護人は、まず、「Bは、被告人の逃走後、警察の厳しい取調べを受け、八月二七日夜に自白するまで、被害者の死体を山中に埋めたことを一貫して否認していた。本来真面目で嘘などつかないBも、時と場合によれば真っ赤な嘘をつくときもあるのである。一~二週間前に被告人から引越を頼まれたという記載が、八月二五日の調書になされているが、この時点では、Bは、被告人が人を殺したことも、自分が一緒に山中に死体を埋めたことも、また、被告人が逃亡したことも、とぼけて否認していたのであって、あるいは、自分が被告人に頼まれて家財道具の運搬の手伝いをしたことを正当化するために事前に被告人からの依頼があった旨嘘を言ったのかも知れないし、あるいは、Cが……運搬依頼を供述している旨誘導されてそのような供述をしたのかも知れない。Bには、これ以外にも、自ら持参したスコップを被告人が見つけてきたと言ったり、六階と七階の中間の踊り場に死体を置いてあった旨供述したりという具合に、不合理極まりない供述を繰り返しており、事前の運搬依頼についても、Bの供述を鵜呑みにするわけにはいかないのである。」と主張する。ところで、Bの昭和五七年八月二五日付け警察官調書の一部が証拠として取り調べられていないので、Bが、警察官に対し、被告人から引っ越しの手伝いを頼まれた旨供述しているか否かは明らかではないが、仮にそうであるとしても、Bは、死体遺棄の事実を自白してからも、一貫して被告人から引っ越しの手伝いを頼まれた旨供述しているし、弁護人が「Bは、……八月二七日夜に自白するまで、被害者の死体を山中に埋めたことを一貫して否認していた。八月二五日……の時点では、Bは、被告人が人を殺したことも、自分が一緒に山中に死体を埋めたことも、また、被告人が逃亡したことも、とぼけて否認していた」と指摘する点も、既に説示したBと被告人との関係にかんがみれば、Bが被告人を庇うためにした供述とも考えられるのであるから、Bが同日の時点で、殺人や死体遺棄の事実について供述していなくても、既に説示したBの供述の信用性の判断は、いささかも揺るがない。また、弁護人が「Bには、……、自ら持参したスコップを被告人が見つけてきたと言ったり、六階と七階の中間の踊り場に死体を置いてあった旨供述したりという具合に、不合理極まりない供述を繰り返して(いる)」と指摘する点も、被告人の供述が信用できることを前提とするうえ、Bは、後者に関して、「もう半分非常階段を降りて、一階下の非常口からビルの中に入って、その階からエレベーターで一階まで降り」と具体的に供述しており、被告人が梱包した死体をBに見せる前に非常階段の七階の踊り場から移動させたことも考えられることに照らせば、一概に不自然とはいえないから、既に説示したBの供述の信用性の判断は、いささかも揺るがない。

弁護人は、次に、被告人が公判廷で、要旨「私は、昭和五七年八月一日は日曜日で出かけず、同月二日はP子の子供らが被告人の自宅に来ており、同月三、四日は大洲市で花火大会があり、私は花火大会の日は外出しないので大洲市におり、同月五日はKとホテルに泊まり、同月六日朝に被告人の自宅に帰って、同月七日は被告人方を借りた後、Kとホテルに泊まり、同月八日から同月一一日朝まで全日空ホテルに泊まり、同月一二日は大洲市におり、同月一三日はKと会ってからC方に行った。したがって、私は、同年八月は、Kと殆ど会っていたし、Kと会ったときは泊まって帰ったので、Bに迎えに来てもらうようなことなかった。」と供述するのを前提に、被告人は、昭和五七年六月ころから仕事をしていなかったから、Bが松山市まで迎えに行ったことはなく、しかも、同年八月からは大洲市で花火大会を見るために被告人の自宅に来ていたP子の子供の世話のため、松山市に行く機会がなかったり、松山市まで行った日もKと会ったりしていたので、Bが松山市まで迎えに行く機会はなかったから、Bの供述は信用できない旨主張する。しかし、被告人の同年七月末ころの行動、同年八月八日の午後からの行動及び同月一一日朝から同月一三日までの行動が不明であるうえ、大洲市での花火大会の日も、被告人がずっと被告人の自宅にいたのか明確ではないから、弁護人が主張するように、Bが、昭和五七年七月末か同年八月上旬ころ、松山市まで被告人を迎えに行く機会が全くなかったとまではいえない。したがって、既に説示したBの供述の信用性の判断は、いささかも揺るがない。さらに、付言すれば、被告人は、働いていないにもかかわらず、Bに対し、働いている旨嘘を付いて、松山市まで行っていたのであるから、松山市まで被告人を迎えに行った旨のBの供述は、この点でも裏付けられている。

また、被告人は、公判廷で、昭和五七年八月上旬ころ、Bに対し、パトロンから逃げるための引っ越しの手伝いを頼んだことはないが、昭和五六年暮れころ、被告人の知り合いでスナックの二階に住んでいたホステスの引っ越しの手伝いを頼んだことはある旨供述するので、これを前提にすると、Bが事実を混同して供述している可能性がないとはいえない。しかし、Bが供述した時期にかんがみれば、Bが被告人から引っ越しの手伝いを頼まれた時期を混同して供述しているとは考え難いうえ、被告人自身、Bに引っ越しの手伝いを頼んだというホステスの名前や住居、階下のスナックの店名も明確でなく曖昧であること、被告人の供述は、起訴後に初めてなされたことからすれば、被告人の供述は、Bの供述に比して、信用性が低いというべきである。

3 Cの供述の信用性

Cの検察官(甲五七、一九二)及び警察官(甲五五、五六)は、いずれも事件発生後一か月以内という記憶が鮮明な時期になされており、Cが被告人と遠縁関係にあり、その妻であるP子が被告人と姉妹のように仲良くし、そのころ、お互いの自宅に泊まりに行ったりするなどして家族ぐるみで親密な交際をしていたことからすれば、あえてCが自分の記憶に反して被告人に不利な供述をしなければならない状況にあったとはいえない。さらに、Cのその供述内容は、被告人から荷物を運ぶことを頼まれたことなどについて一貫しており、被告人から荷物を運ぶことを頼まれた時期、状況、被告人の発言内容などについて、具体的かつ詳細に供述したものであり、特に不自然、不合理な点はなく、他方、被告人が逃亡中のため、被告人の取調べがなされておらず、捜査官が誘導できないものと考えられることからすれば、Cの右各供述は、信用性が高いということができる。また、Cの公判廷での供述は、はっきりしない点があるが、それが体験後一五年以上が経過した後になされたものであることからすれば、格別、不自然であるとはいえないし、他方、その供述内容は、信用性の高いCの検察官(甲五七、一九二)及び警察官(甲五五、五六)に対する各供述と符合するものであることからしても、Cの公判廷での供述は、信用性が高いというべきである。

これに対し、被告人は、公判廷で、以前から着物に着替えるために松山市でマンションを借りようと思っていたところ、いよいよ借りようと思い、そこに着物などを運んでもらおうと思って、昭和五七年七月初旬ころ、P子に対し、以前、引っ越しの手伝いを頼んだことがあるCに衣類の様なものを運んでほしいと頼んだことはあるが、Cに対し、引っ越しの手伝いを頼んだことはない旨供述する。確かに、被告人がP子に対し、被告人が供述するような依頼をしたことが認められるが、そうだとしても、それが被告人がCに荷物を運ぶ手伝いを頼んだことと矛盾するものではない。そして、Cは、事件の二、三か月前に、直接被告人から家具も含めた荷物を運ぶ手伝いを頼まれた旨明確に供述しているし、その依頼について、その後どうなったかを被告人に尋ねたところ、被告人から「またひっついたみたいだから、あの話はもういいわ。」と言われた旨の被告人にとって有利に考え得ることも供述していることからすれば、既に説示したCの供述の信用性の判断は、いささかも揺るがないのであって、被告人の供述は、Cの供述に比して、信用性が低いというべきである。

4 被告人がW宅に行った点

被告人は、要旨「私は、昭和五七年七月一九日は、松山市に住んでいるWと一緒に昼食をとり、買物に行くつもりで、松山市まで行き、Wが住んでいた借家まで行ったところ、Wがいなかったので、共同経営の話をするつもりでA子方に行くことにした。私は、Wが事件には関係がなく、Wに迷惑をかけるといけないと思って、捜査官に対し、その事実を言わなかった。」と供述する。

ところで、Wは、要旨「私は、昭和五七年三月末日、国鉄を定年退職した。私は、同年四月ころから、松山市にある幼稚園で働くようになり、そのため、松山市で、和室二部屋と板間の台所がある長屋を借りて住んでいたが電話はなかった。私は、松山市にある二、三件のスナックに行ったことがあり、大洲市出身のホステスに会ったことがある。私は、「X」と名乗っていたので、ホステスから「Xさん」と呼ばれていたが、「Wさん」と呼ばれたことはなく、特に親しくしていたホステスはいなかったし、ホステスに本名や住所を教えたことはなかった。私は、大洲市出身のホステスと食事をしたり、同伴出勤したりしたことはなく、そのホステスが自宅に来たこともなかった。私は、ホステスとは、店でその晩限りの付き合いであり、プライベートな付き合はしなかった。私は、夜に女性をどこかに車で送ったことがある。」と供述し、Y子は、要旨「私は、昭和五二年ころから昭和五八年初めころまでの間、「丙川」でホステスとして働いており、「Z子」の源氏名で、「Zちゃん」と呼ばれていた。私は、「丙川」で働くようになって間もなく、同僚のホステスから「X」と名乗っていたWを客として紹介された。Wは、「丙川」では、「Xさん」と呼ばれており、私が知る限りでは、「Wさん」と呼ばれたことはなかった。私は、昭和五四年暮れか昭和五五年初めころから、他の客の応対をしなければならないときを除いて、「丙川」に来たWの相手をするようになり、Wも私と酒を飲んだり、話をするために「丙川」に通った。私が知る限りでは、Wが他のホステスと親しく付き合ったり、店外で個人的に会ったりするような様子はなかったし、被告人と親しく交際している様子もなかった。私は、Wから、Wが松山市にある借家に住んでいるが、大洲市の出身で、妻が大洲市におり、バスの運転手をしていた国鉄を退職して、松山市にある丁川幼稚園でバスの運転手をしている旨聞かされた。しかし、私は、Wから住所を教えられたことはなく、Wが他のホステスに住所を教えるところを見たことはない。私は、被告人に対し、Wが元国鉄職員であることや借家住まいをしていることを教えた記憶がない。しかし、私とWがカウンター越しに話をしている際に、他のホステスがその会話を聞いたりすることや、ホステスの間でWの話題が出ることはあった。私は、一度だけWの借家の前まで行ったことがある。」と供述する。

これに対し、被告人は、Wとの関係について、要旨「私は、昭和五七年四月に、二回目に「丙川」で働いていたときに、Y子からWを紹介された。Wは、Y子の客で、「Wさん」と呼ばれていた。私は、事件前に、二回程、店が終わってから、Wと一緒に食事をして、始発までW宅で休ませてもらった。私は、同年八月二四日、今治へ行くのに、適当な列車がなかったので、列車を待つためにW宅に押しかけた。すると、Wが送ってくれることになった。」と供述しており、被告人の供述とW及びY子の各供述とは異なっている。

しかし、被告人がWを知った経緯についての被告人の供述とY子の供述とでは、矛盾するとまではいえないうえ、WとY子の各供述の間にも、WとY子とがスナックで親しくしていたか否かについて必ずしも符合しているとは言い難いし、Wが「近所が……大変やかましいとこであったので、」「世間体というものを考えまして、私も独身でない、女房もおる身ですから」「家には女の子は入れないようにしとった」と供述するように、Wが妻以外の女性との関係が噂にさえならないように、注意を払っていたにしては、暗い時間帯に女性から「急用ができた……行ってもらえんだろうか。」と言われて自動車で送ったということと整合性を欠くとも思われる。また、Wは、国鉄を退職した後、松山市にある二、三件の飲み屋に行ったことがあり、それらの店に被告人かどうかは記憶していないものの、大洲市出身のホステスがいた記憶がある旨供述したり、夜に女性をどこかに車で送ったことがある旨供述したりしており、被告人の供述と符合するかのような供述もしている。さらに、Wの供述によれば、Wが女性関係について注意を払っていたことが認められることからすれば、被告人とWとの間に何らかの私的な関係があったにもかかわらず、Y子がこれに気付かなかったとしても、不自然とまではいえない。他方、被告人が起訴後に初めてW方に行くつもりであった旨供述するようになったことからすれば、被告人の供述は、疑わしいといえるものの、被告人が供述するようになった経緯について供述するところは、Wが女性関係についてある程度の注意を払っていたことも配慮したものと考えれば、一概に不自然とはいえない。なお、この点について、検察官は、「被告人は、捜査段階において、本件では共犯者がいたとして、まず共犯者として生前の被害者と交際していたTの氏名を挙げ、同人が被害者を絞殺したなどと供述して責任転嫁をし、そのため右Tは被告人のかかる虚偽供述によって取調べ等を受ける羽目になって多大な迷惑を被っているものであり、さらにその後も被告人は、右Tが共犯者ではないと判明すると、今度は被告人の知人であったIが共犯者であり、同人が被害者を絞殺したなどと供述していたものであり、かように虚偽の供述をなして居もしない共犯者、それも殺害の実行者が別にいたなどとして、Tや、今は亡きIの遺族らにも多大な迷惑をかけていた被告人において、前記元国鉄職員方に迷惑をかけたくないが故に捜査段階において事実を秘匿したとの供述は、およそ了解し得ないものである。」と主張するが、既に死亡しているIやA子の恋人として既に昭和五七年において取調べの対象となっていたTと、未だ取調べの対象となっていなかったWとを、同列に考えることはできない。また、Wと知り合う経緯、Wとの関係について、被告人は、具体的に供述しているともいえるのであって、単なる思いつきや想像だけで供述しているとも一概にはいえない。そうすると、被告人の供述よりもW及びY子の各供述の方が信用できると断言することは躊躇される。

また、Tは、A子と交際しており、昭和五七年八月一九日午前七時ころ、A子方から出勤し、同日夜にはA子方に再び戻る予定であったところ、A子から被告人がA子方に来る旨聞いていたとは認められないこと、A子は、同日、訪れた被告人に対し、昼寝をしようとしていた旨言ったことからすれば、被告人は、A子に対し、A子方を訪れることを事前に知らせていなかったことが認められるのであって、当初の予定を変更してA子方に行った旨の被告人の供述と符合するともいえる。

したがって、被告人の供述は、疑わしい点はあるものの、その信用性を否定することができず、Y子及びWの各供述も信用できるとはいえない以上、被告人の供述に基づいて(被告人に有利な)事実を認定することは、刑事訴訟制度上、やむを得ない。

第三  関係各証拠によって認められる犯行の客観的状況

一  A子の死体の状況

1 外表検査

身長は一六一センチメートル、体重は四二キログラムで、体格は中程度で、栄養は佳良であった。死体の強直は、顎、肩、肘、橈骨手根、手の指、股、膝、距腿及び足の指関節に認められない。死斑は、腐敗性変色のために認めがたい。死体は、紫色ないし緑色の腐敗性変色が、顔、胸及び腹の腹側、前大腿部並びに前下腿部に認められ、特に胸の部位の腹側及び上胃部に強く認められる。全身は水分に被われている。直腸の内腔の体温は摂氏二八度(室温摂氏二二度)である。硬直及び死斑は、腐敗が進み、認めることができない。

死体の頚部には、幅〇・二センチメートルの黄色の帯締め(本件帯締め)が頚の部位を水平に一周しており、その高さは、右の胸鎖乳突筋部においては、右下耳底部より下方に五・五センチメートルの部位である。後頚部において、本件帯締めと皮膚との間に毛髪約一〇〇本が挟まっている。毛髪は本件帯締めより下方に九・五センチメートル出ている。本件帯締めは、右の胸鎖乳突筋部で、右の下耳底点より下方に六・五センチメートルの部に、逆型のひとえ結び(右前に一重結び)の結節を形成している。結節から遊離している一本は、長さ六四・〇センチメートルである。遊離端から近位三・八センチメートルの部を糸三本に依り結紮している。本件帯締めの長さは、内法が二九・六センチメートル、外法が三二・〇センチメートルである。頚の部位の周囲は、長さが三〇・九センチメートルであり、きつく絞搾すると二五・〇センチメートルである。結節部から帯締めの左端までは六四センチメートル、右端までは六〇・五センチメートルであり、本件帯締めは強く絞められた状態になっている。本件帯締め以外に外表上特別異常な物質などは付着していない。

左手と腹部の間に挟んだ状態で、青色タオル地ハンカチ一枚がある。

頚の部位において、甲状腺部、左の頚動脈三角、胸鎖乳突筋部、肩甲僧帽筋三角、後頚部、右の肩甲僧帽筋三角、胸鎖乳突筋部及び頚動脈三角において、オトガイ点より下方に六・五センチメートルの部に、水平方向に走る幅一・四センチメートルの索痕(圧痕)がある。この索痕は、比較的明瞭に認められ、帯締めによって発生することが可能である。

<1>甲状腺部において、オトガイ点より下方に六・〇センチメートルの部、さらに右方に〇・六センチメートルの部に米粒大の表皮剥脱がある。<2>右の頚動脈三角において、オトガイ点より下方に六・〇センチメートルの部、さらに右方に一・五センチメートルの部に小豆大の表皮剥脱がある。<3>右の頚部脈三角において、オトガイ点より下方に六・一センチメートルの部、さらに右方に三・〇センチメートルの部に小豆大の表皮剥脱がある。<4>右の胸鎖乳突筋部において、オトガイ点より下方に六・〇センチメートルの部、さらに右方に四・六センチメートルの部に米粒大の表皮剥脱がある。<5>右の胸鎖乳突筋部において、右の下耳底点より下方に七・五センチメートルの部、さらに左方に二・八センチメートルの部に帯締めの結節の部に一致して小豆大の表皮剥脱がある。<6>右の胸鎖乳突筋部において、右の下耳底部より下方に七・二センチメートルの部、さらに左方に一・三センチメートルの部に、帯締め結節部分に一致して、米粒大の皮下出血がある。<7>右の胸鎖乳突筋部において、右の下耳底点より下方に七・八センチメートルの部、さらに左方に一・二センチメートルの部に、本件帯締めの結節部に一致して、米粒大の皮下出血がある。<8>右の肩甲僧帽筋三角において、右の下耳底点より下方に七・三センチメートルの部、さらに左方に〇・六センチメートルの部に、本件帯締めの結節の部に一致して、米粒大の皮下出血がある。

甲状腺部及び右の頚動脈三角における表皮剥脱は、手の指の爪が圧迫的に波及した結果、発起したものと推定でき、A子自身の手指の爪によるものとしても矛盾はなく、その圧迫力は必ずしも強い程度ではない。<5>の表皮剥脱並びに右の胸鎖乳突筋部及び右の肩甲僧帽筋三角における皮下出血は、本件帯締めの結節により、圧迫された結果、発起したものと推定できる。

頚の部位において、それ以外に特変ある状況は認められない。

臍部及び恥骨部において、臍点より下方に三・五センチメートルの部に、左卵巣における疾患を治療する目的で、死亡時からかなりの日時が遡る生前に手術を施した結果であると認められる大きさ縦一四・〇センチメートル、横〇・五センチメートルの陳旧性瘢痕がある。

四肢において、約九割の部に腐敗性変化を被ることに基づくものと認められる表皮剥脱がある。左の手掌は洗皮になっており、真皮と皮下組織との間に水様液を容れている。左の指の掌側部は洗皮になっている。右の手掌は洗皮になっている。右の手背において、表皮は白濁し、洗皮の状態である。左右の手指に皮下組織にまで達する創傷は認められない。なお、表皮の薄い所を切れば、洗皮状態であれば分からない場合もあるが、筋肉まで切れていれば、洗皮状態であっても分かる。

左右の手の爪はいずれも指端より〇・三センチメートル出ている。

舌背には歯で咬んだ痕はない。

A子が生前に強く緊縛されたことを示す皮膚の圧痕及び皮下出血は認められない。

2 内景検査

頚の部位の皮下筋層は、腐敗性変色を呈している。舌において、舌背は中程度に腐食している。食道の内腔において、胃内容と同様の物質約二ミリリットルを容れている。

舌骨は、左右の大角と体の結合が著しく弛緩しており、手指により他動的に動かすと、左右の大角において、各々約四五度の可動性がある。舌骨は骨折している。

胃の漿膜及び粘膜に特変ある状況はない。胃の内容物として、米粒、白菜、春菊、ハム等を含む液汁約二五〇ミリリットルを容れている。胃内容物中には〇・二七〇パーセントのエチルアルコールが含有されており、死亡直前ないし本件犯行当時飲酒していたものと認められる。

小腸の漿膜及び粘膜に特変ある状況はない。十二指腸の内腔においては、どろどろした液汁を容れている。米粒その他特別形態ある物質はない。空腸及び回腸の内腔は空虚である。

幽門より遠位に約四三〇センチメートルの部に回盲弁がある。大腸の漿膜及び粘膜に特変ある状況はない。大腸の内腔は回盲弁から回盲弁より遠位に約一三〇センチメートルの部までは空虚である。

膀胱の表面に異常なく、内腔は空虚である。

3 特別検査

血液型はA型である。

脳中には、バルビツール酸系睡眠剤、非バルビツール酸系睡眠剤及びネルボン(ニトラゼパム)はいずれも含有されていない。

4 死因等

死因は、頚の部位を絞搾することにより招来した外力性窒息である。絞搾力は、かなり強力なものであると推定される。

二  建物の状況など

1 甲野ビル

甲野ビルは、松山市の中心にある松山城から南東目測一キロメートルの地点である松山市《番地略》に、鉄筋コンクリート八階建てで東向きに建っており、北西角に外付け非常階段がある。一階東西にはそれぞれ出入口があり、建物内部には、一階から八階まで、階段及びエレベーターがあり、各階には、東西に通路があり、その西端には非常階段に至る鋼線入り磨りガラスの片開きのアルミ製ドアがあり、そのドアは、いつも鍵がかかっていない状態である。非常階段の七階の踊り場から、五段下がると非常階段の六階と七階の中間の踊り場に至り、一〇段上がると非常階段の七階と八階の中間の踊り場に至る。非常階段の周りには鉄柵があり、外部が視認できる状態である。

2 A子方(甲野ビル七〇三号室)

A子方は、甲野ビルの七階西端部にある三DKの部屋であり、ベランダを除く居住部分の床面積は、単純に計算して(甲四に添付の現場見取図第四による。)、約五四・六平方メートルである。

9.0×5.4十1.5×(2.7+1.3)

昭和五七年八月二三日ころのA子方には、玄関に、ハイヒールが八足入った下駄箱などがあり、台所に、食器、灰皿などがあり、四畳半の間にハンドバッグ七個及び雑誌七冊などが入った和ダンス上段、ブラウス及びワンピースなど一八点並びにスカーフ一六点が入った洋服ダンス、ワゴンなどがあり、六畳居間に本件ソファー、ガラステーブルなどがあり、六畳寝室にクーラー、ダブルベッド、姿見、衣類などが入った洋服ダンスなどがあった。本件ソファーは、横幅が約二〇二センチメートル、奥行きが約九九センチメートル、背もたれ部の高さが約六八センチメートルで、その両端がなだらかに上に傾斜して肘掛け部分になっており、その背もたれ部分に四点、右肘掛け部分上部に一点、尻当て部分に一点、前面蹴込み部分に一点の血痕が付着しており、また、本件ソファーの中央部に広範囲にわたって血液型がA型の人尿が付着している。さらに、本件ソファーの後ろにある北側西端部の押入れの扉前面の床上七〇センチメートル、面側壁面から四〇センチメートルの位置に一点、本件ソファーの東端に置かれている黄色クッションの裏面に一点、本件ソファーの中央部の前面の絨毯の上に三点の血痕が付着していた。なお、本件ソファーがある部屋の床に敷いている絨毯には尿素は付着していない。

3 丙山ビル

丙山ビルは、伊予鉄道古町駅の南方目測六〇〇メートル、同大手町駅の北方目測三〇〇メートルの地点である松山市《番地略》に、鉄筋コンクリート八階(一部七階)建てで東向きに建っている。

4 被告人方(丙山ビル六〇四号)

被告人方は、丙山ビルの六階北隅にある二DKの部屋であり、ベランダを除く居住部分の床面積は、単純に計算して(甲七に添付の見取図による。)、約二七・七平方メートルである。

(0.79+2.54+0.42+1.60+0.38)×(0.28+1.74+0.39+0.20+1.74+0.49)

第四  既に認定した事実などから推認できる犯行状況

一  被告人がA子方に行ってからA子を殺すまでの状況

1 被告人の供述の信用性

被告人は、要旨「私とA子は、普通に話をしていたところ、A子が「Kさんのようなお金のない人といつまでも付き合わないで、早く別れたらどうよ。」と言ったので、私が「そんなお話で来たんじゃないんよ。」「お店の話で来たんだから。」と言うと、A子が「あんたもお客さん持っとるんやから、一人でしたらいいやないか。」「私はママさんに義理もあるんやし、辞められんわい。」と言いながら、鏡台の方に行って、私に背を向けたので、私が「そんな言い方ないやろ。」「A子ちゃんがこの前いろいろいい返事してくれたから、私がこうして尋ねて来たんであってね、そんなんじゃったら、いややって言うといてくれれば、自分でも仕事も探しとったし、行っとったのに。」と言うと、A子が鏡台の引き出しから財布を出し、「車代ぐらいやったら持って帰り。」と言って、私の方に財布を投げ、それから、私に背中を向けたまま足を組んでヘアブラシで髪をとかし、頭を左右に振って、ふけを落としたりして、私を馬鹿にするような態度を取った。そこで、私は、ものすごく腹が立ち、A子を謝らせたくてテーブルの上に置いてあった果物ナイフを右手に持って、鏡台の方を向いて座っているA子の後ろに行った。すると、A子は、私の方に向き直り、私と揉み合いとなったため、A子の右手人差し指が果物ナイフで切れたことから、A子が「痛い。」と言って、左手で右手人差し指を握りながら、本件ソファーに座った。そこで、私は、A子の指から出た血を止めるために、A子にティッシュペーパーとハンドタオルを渡した。」と供述する。

まず、A子が果物ナイフで右手人差し指を切り、血が出たのでハンドタオルを渡した旨の被告人の供述は、A子方に血痕が残っていた状況や、A子の死体の左手と腹部に挟んだ状態で青色タオル地ハンカチ一枚があったことと符合する。さらに、被告人とA子とが揉み合っている最中に、A子が指を切った旨の被告人の供述は、本件ソファーの背もたれ部分、右肘掛け部分上部、尻当て部分、前面蹴込み部分並びに本件ソファーの後ろにある北側西端部の押入れの扉前面、本件ソファーの東端に置かれている黄色クッションの裏面、本件ソファーの中央部の前面の絨毯の上という広範囲にわたって血痕が付着している状況と符合するといえる。そうすると、果物ナイフを持った被告人とA子とが揉み合い、A子が右手人差し指を切った旨の被告人の供述は、信用性が高いというべきである。

次に、A子が馬鹿にするような態度を取ったことに腹が立ち、果物ナイフを手に取った旨の被告人の供述は、それ自体、特に不自然、不合理とはいえない。しかし、被告人がA子と普通に話をしていたところ、A子が「Kさんのようなお金のない人といつまでも付き合わないで、早く別れたらどうよ。」と言った旨の被告人の供述は、A子が突然、Kの話をするようになった経緯が不明であり、不自然でもある。そして、これに続いて、被告人が「そんなお話で来たんじゃないんよ。」「お店の話で来たんだから。」と言ったところ、A子が「あんたもお客さん持っとるんやから、一人でしたらいいやないか。」「私はママさんに義理もあるんやし、辞められんわい。」と言いながら、鏡台の方に行って、被告人に背を向けたので、被告人が「そんな言い方ないやろ。」「A子ちゃんがこの前いろいろいい返事してくれたから、私がこうして尋ねて来たんであってね、そんなんじゃったら、いややって言うといてくれれば、自分でも仕事も探しとったし、行っとったのに。」と言った旨の供述も、後に四6で説示するとおり、共同経営の話が未だ具体化しておらず、被告人がそのための準備をしたこともないこと、被告人自身、昭和五七年九月から働こうと思っていた旨矛盾するかのような供述をしていることに照らして、そのうちの被告人の発言部分は、不自然である。

したがって、馬鹿にするような態度を取られたことに腹を立て、A子を謝らせようとして果物ナイフを持ったところ、A子と揉み合いになって、A子に怪我を負わせた旨の被告人の供述は信用できるが、その余のその経緯についての被告人の供述は、信用できない。

2 推認事実

そこで、既に認定した事実及び信用できる被告人の右供述部分によれば、次のとおり推認できる。

A子は、機嫌良く、被告人をA子方に招き入れ、飲物や果物を提供し、一時間程度、飲酒しながら話をしていたのに、突然、態度を豹変させて、被告人を馬鹿にするような態度を取ったのは、A子にとって、予想外の不愉快な出来事があったからであると推認できる。そして、後に三2で説示するとおり、被告人が被告人方に家具などを備え付ける必要に迫られていながら、そのころ他人名義で借金をせざるを得ないまでに経済的に追いつめられており、家具などを買うのが著しく困難な状況であったこと、被告人が当日Wに物を買ってもらうつもりで松山市まで来たこと、被告人が要旨「A子と共同で店を経営するにあたっては、金銭面でA子に頼ることを考えていた。A子が「車代ぐらいやったら持って帰り。」などと言いながら、被告人の方に財布を放り投げた。」と供述していることなどを考え合わせると、被告人は、A子に対し、A子に経済的に負担をかける何らかの話(ただし、被告人自身、資金関係の話は一切していない旨供述していることにかんがみれば、少なくとも共同経営に関するものではない。)を持ち出したところ、A子が不愉快になって、被告人を馬鹿にするような態度を取ったことから、被告人は、これに腹を立てて、果物ナイフを手に取り、揉み合いとなって、A子に怪我を負わせたものと推認できる。

二  被告人がA子を殺した際の状況

1 被告人の供述の信用性

被告人は、要旨「A子は、ソファーに座り、私は、カーペットの前に座ってA子の怪我の様子を見ていたが、A子は、「こんなまねして。警察に言うてやる。」と言ったので、被告人は、「ごめん。こんなつもりで、今日は来たんやないんやから、警察だけはこらえて下さい。」と言ったが、A子は、「あんたはこんなことして、私が警察に言ったら、BさんやKさんやったって、もう終わりや。」と言った。私は、「あんただって、人のこと言われんじゃない。」と言って、掴みかかろうとしたが、A子から右足で胸を蹴られ、ひっくり返った。A子は、「お店をするんなら、あんたとなんかしないで、一人でするわよ。」と言った。そして、私は、左に帯締めがあるのが見えたので、それを取って、直ぐに振り返ってA子の後ろからA子の首に本件帯締めをかけて、力一杯本件帯締めを締めた。私は、そのとき、目をつぶっていたので、どのようにしたか覚えていない。A子は、手を少し動かしただけで、それ程暴れなかった。」と供述する。

しかし、被告人が供述するようなA子の発言は、被告人が果物ナイフでA子に怪我を負わせたことを非難する趣旨のものであり、殊更被告人を馬鹿にするような内容のものとはいえず、他方、被告人は、A子に怪我を負わせたことを謝罪し、止血のためにティッシュペーパーやハンドタオルを渡したりして、平静な精神状態になっていたのに、被告人が、有形力を伴わない被告人が供述するようなA子の発言だけで、再び腹を立て、A子を攻撃する意思が生じて、A子に掴みかかろうとしたというのは、被告人に粗暴癖があるとは認められないことや、その直前の経緯などにかんがみて、不自然である。仮に、被告人が、A子の発言に触発されて、A子に掴みかかろうとしたところ、A子から蹴られたとしても、被告人は、当時、Kと不倫関係を続けていたとはいえ、夫と四人の子供がおり、家庭内に何の不和もなかったのであるから、それだけでKとの関係や家庭を崩壊に導くことになる殺人を決意するというのは、余りにも短絡的であるし、その程度のことで、確定的な殺意を持って、A子の首に回した本件帯締めを力一杯締める行動に出るというのも、不合理である。また、被告人は、A子の後ろから本件帯締めを首にかけて締めた旨供述し、その供述を前提に犯行状況を再現する(甲一四八)が、犯行状況の再現は死体の頚部前面に本件帯締めの結節部があることと符合しないし、被告人の供述はその結節部の位置と本件帯締めが強く締められた状態になっていたことからすれば、A子は、前方から本件帯締めを首の後ろにかけられ、本件帯締めを一度結節させたうえで、両端を力一杯引っ張ることにより絞殺されたと認められることと符合しない。さらに、被告人が、目をつぶっていたので、A子を殺した具体的状況をよく覚えていない旨の曖昧な供述しかしていないことも、不自然である。

したがって、被告人の供述は、信用できない。

2 推認事実

A子は、被告人によって前方から本件帯締めで首を絞められているが、生前に身体を強く緊縛されていたことはなく、身長が被告人よりも八、九センチメートル上回り、ゴルフをするなど体力的に恵まれていたのであるから、通常の状態であれば、激しく抵抗することが十分できたと考えられる。ところが、A子の死体の首の辺りには、圧迫力は必ずしも強い程度ではないA子の手指の爪によるものとしても矛盾はない数個の表皮剥脱しか認められないこと、死体の手指の爪と皮膚の間に皮膚組織があったとは認められないこと、死体の手足などに激しい抵抗をしたような痕跡が認められないこと、被告人自身、首を絞めるとき、A子がそれ程暴れなかった旨供述していることからすれば、A子は、首を絞められる際、せいぜい首に手指を押し当てる程度の行動しかできず、被告人が本件帯締めで首を絞めるのを妨げるような行動を取ることができなかったものと認められる。そこで、A子がこのように激しく抵抗することなく、前方から本件帯締めで首を絞められていることや、A子が死亡した際に飲酒していたこと、A子が軽装であり、昼寝をしようとしていたとか、昼寝をするのにちょうど良い旨の発言をしていること、A子がヘアブラシで髪をとかしたりして、被告人に帰宅を促すような態度を取っていることなどを考え合わせれば、A子は、酔いや眠気のため、激しく抵抗することが困難な状態に陥っていたものと推認できる。そして、被告人は、A子方でA子と二人で飲酒しながら話をしていたことからすれば、A子が飲酒による酔いや眠気のため、激しく抵抗することが困難な状態に陥っていることを認識したうえで、これに乗じてA子を絞殺したものと推認できる。

また、本件ソファーの中央部にA子と同じ血液型の尿が付着していること、死体の膀胱の内腔は空虚であることからすれば、A子は、本件ソファーの中央部に座った状態で絞殺されたものと推認できる。

三  被告人がA子を殺した目的及び家具などを運び出した理由

1 被告人の供述の信用性

被告人は、要旨「私は、家具を買う程度の現金を持っており、自分で買って被告人方に備え付けるつもりであった。私は、Cに電話をかける直前に、犯行が発覚しないように、失踪を装って、家具などを運び出すことを思いついたのであって、家具などが欲しかったのではない。私は、A子とはサイズが違うので、A子の衣類を身に付けることができない。私は、貴金属アレルギーがあるので、A子のネックレスなどを使う気はなかった。私は、A子とはネックレスや指輪のサイズも違うので、それらを身に付けることができない。私は、Kと別れることが分かっていたので、見栄を張る必要はなかった。私は、鍵を探そうと思って、鏡台の引き出しを開けると、通帳があったので、通帳を取り、鏡台の上に札入れがあったので、札入れも取ったが、見えなかったら取っていない。私は、A子を殺してまで札入れや通帳を取るという気持ちはなかったが、後から考えると、潜在的にそのような気持ちがあったと思う。」と供述する。

しかし、被告人は、昭和五七年六月ころに「丙川」を辞めてから、収入がなかったにもかかわらず、遊興に耽ったため、サラ金会社から借金を重ね、ついには自分名義で借金をすることができなくなったことから、P子やQ子名義で借金をするようになり、同年八月には合計約二〇〇万円の借金を負い、サラ金会社から借りて他のサラ金会社に対する利息を支払うような状態であり、しかも、Bの収入は、手取りで一か月約二七万円しかなく、約七万円の住宅ローンを支払った後は、一家六人が生活するだけで精一杯であったため、Bの給料をサラ金会社への返済に充てることもできない状態であったのであるから、被告人が家具、それもKに対し誇示できるような高級感のある家具を買うことができる程度の現金を持っていたとは考えられず、自分で家具を買って被告人方に備え付けるつもりであった旨の被告人の供述は何の根拠もない。

また、被告人は、犯行当日、A子方に入るところを誰にも見られなかったのであるから、単に逃走しさえすれば、被告人がA子を殺したことが容易に発覚しない状況であったのに、発覚する危険を顧みず、A子を殺してから午後一〇時過ぎころまでA子方及びその付近に留まったうえ、人目に付きやすく、時間もかかる家具などを運び出してまで、A子の失踪を装うことは不合理であるし、ダブルベッド及び血の付いた本件ソファーを初めからA子方に残すつもりで作業を行い、A子の愛犬もA子方に残したりしたことからすれば、A子の失踪を装うにしても不合理である。さらに、被告人は、既に犯行当日にP子を利用してA子名義の預金口座から現金を引き出す意思を持っており、翌日にはA子名義の預金口座から現金を引き出したこと、その後、被告人は、Kが被告人方を訪れることを予想して、運び込んだ家具などを整理し、同月二三日にKと被告人方で会うや、Kに対し、運び込んだ家具などをしきりに自慢したこと、被告人自身、本件ソファー及びダブルベッドを運び出さなかった理由について、血が付いていたり、A子が寝ていたりしたからである旨供述し(九回一〇四丁)、被告人が使用する目的でA子方から家具などを運び出したかのような前提に立っていることを考え合わせると、家具などが欲しかったのではない、鏡台の上に札入れがあったので札入れも取ったが、見えなかったら取っていないというのは不合理である。また、後に四1で誇示するとおり、被告人がKと別れることを前提とする供述は、不自然である。

したがって、被告人の供述は、信用できない。

ところで、被告人は、警察官に対し、「私は、事件の当時に多額の借金を抱えており、また付き合っていたKさんに対しても見栄を張っているような状態でした。そこで私は、借金を精算したい。Kさんに対しても、つじつまを合わせたい。という気持ちになっていきました。」「私は、最初から見栄のために家財道具を取ってやろうとも考えていましたが、A子ちゃんを殺した後に、家財道具を持ち出しておけば、みんなは蒸発したと思うだろうし、警察も捜さないと考えたのです。」(乙二)、「Kさんに対して見栄を張り高松の料理店の婚期が遅れた独身娘と装っていたのです。そして両親が、家具を準備してくれていると嘘を言っていました。そんな状態の時にKさんの転勤が決まっており、最後にはKさんに対してつじつまを合わせておきたかったのです。Kさんは、頭の良いタイプの人で、当時の主人Bさんとは全く違うタイプの人でした。ですからKさんに惹かれていたこともあり、Kさんに対しては、見栄を張ったままでつじつまを合わせておきたかったのです。そこで、A子ちゃんからお金を奪い、借金地獄から抜け出すとともに、A子ちゃんの家具などを奪い、Kさんに対するつじつまも合わせようと決心したのです。」(乙三)と供述しており、A子が所有する現金及び家具などを奪い取る目的でA子を殺した旨供述していたが、その後、TやIがA子を殺した実行犯である旨の供述をし、逮捕後一九日目の同月一六日になって、検察官や警察官に対し、A子を殺した際の状況について、A子から共同経営の話を断られるとともに馬鹿にするような態度を取られたことに腹が立って、果物ナイフを持ったところ、揉み合いになって、A子に怪我を負わせてしまい、その後、A子から罵られ、胸を蹴られたことから腹が立って、床上にあった本件帯締めでA子の首を絞めた旨具体的かつ詳細に供述するようになり、さらに、被告人質問の最終段階である平成一〇年九月七日の第一二回公判期日で、A子から財布を投げつけられて、「車代ぐらいやったら持って帰り。」などと言われたことや、A子からKとの関係をなじられたりしたので、A子に掴みかかろうとしたことを追加して供述する。このように供述が変遷した理由について、被告人は、公判廷あるいは書面(弁四二)で、要旨「捜査段階でも公判廷での供述と同旨の供述をしていたが、その調書は作成されなかった。私は、警察官からA子の両親の調書やA子の死体の写真などを見せられて、違うと言うのが醜くみえたので、また、Bらを証人として法廷に出頭させるのが嫌であり、自分も自殺しようと思っていたことから、警察官が言うとおりのことを認めたので、借金の精算やつじつま合わせのためにA子を殺して現金や家具などを奪った旨の供述調書が作成された。その後、私は、精神状態が不安定な中で、警察官や検察官から押し付けられて共犯者の名前を挙げた。」と供述する。しかし、Bらを証人として出頭させたくないという理由で、A子を殺した際に現金及び家具などを奪い取る意思があったことを認める供述をしたというのは、余りにも不自然であるし、警察官調書(乙二)では、Iに対し、昭和五七年八月末までに借金を返済する約束をしていた旨の捜査官にとって知り得ない事柄が録取されていたり、警察官調書(乙三)では、共同経営の話をしたという捜査官にとって知り得ない、被告人がしきりに強調する事柄が録取されていたり、被告人が昭和五七年八月一九日以前にA子方を訪れたときには、未だA子を殺してまで家具を奪い取ることは考えていなかった旨の犯行の計画性を否定する供述も録取されていることや、被告人が警察官調書(乙二、三)作成後にした、IがA子を殺した旨の虚偽の供述についてまで供述調書が作成されていることからすれば、捜査段階における被告人の取調べ全体を通して、捜査官による誘導や押し付けがあったとは認められない。また、被告人は、A子から財布を投げつけられたことやKとの関係をなじられたことについて、公判廷で初めて供述した理由について、上申書で書くつもりだった旨供述するが、被告人が供述するようなことが、公判廷で供述できないものであるとは認められないばかりか、上申書で書く予定を変更して、公判廷で供述することにした理由も判然としないから、供述調書作成経緯についての被告人の供述は、信用できない。

これに対し、被告人の警察官に対する供述(乙二、三)のうち、A子を殺した際に張った見栄のつじつまを合わせるために家具などを奪い取る意思があった旨供述する部分は、被告人がそれまでKの歓心を買うための発言を繰り返していたことや、Kの転勤が差し迫っていたことなどの被告人とKとの交際状況及び被告人の負債状況などと符合することなどにかんがみると、信用性が高いということができる。

しかし、被告人は、何とか借金の利息を返済しており、返済の催促さえ受けていなかったこと、A子から奪い取った現金やA子の銀行口座から引き出した現金を借金の返済に充てていないことからすれば、借金の返済を目的として、A子から現金などを奪った旨の被告人の供述は、信用できない。

2 推認事実

そこで、既に認定した事実及び信用できる被告人の右供述部分によれば、次のとおり推認できる。

被告人は、深い仲となったKの歓心を買うため、自分の身上関係について嘘をついて見栄を張り、富裕な良家の子女で、教養があり、婚期の遅れた独身女性であるかのように振る舞っていたところ、神戸市への転勤が間近に迫っており、転勤後も交際を続けたいと思っていたKから出張で松山市を離れる旨聞かされたことから、Kの歓心を買い、その愛情を繋ぎ止めておくために、Kが出張している間に、母親が被告人方宛に家具などを送ってくれる旨言って見栄を張ったものと推認できる。ところが、今回は、これまでの抽象的な見栄と違って、具体的な日まで言ったので、その日までに被告人方に家具を備え付けることができないと、これまで付いた嘘が露見して、今後、Kと交際を続けることができなくなるおそれがあることから、被告人は、そのつじつまを合わせるために、Kが昭和五七年八月二二日に出張から帰り、被告人方を訪れるまでに、家具などを買うなどして手に入れ、被告人方に備え付けておかなければならないと考えるようになったものと推認できる。しかし、被告人は、自分の経済状況では、家具などを買って、張った見栄のつじつまを合わせることは著しく困難な状況であったので、A子が多額の現金や預貯金を持っていると思っており、また、A子方で豪華な家具などを見たことから、張った見栄のつじつまを合わせるために、A子を殺してでもA子の財産を奪い取り、これを利用して被告人方に家具を備え付けたりしたうえ、Kに誇示しようと考え、これを実行したものと推認できる。

なお、弁護人は、被害品のうち、家具の占める割合は、数量で全体の約三・八七パーセントに過ぎず、検察官が主張する時価を基準としても全体の約七・三パーセントに過ぎないし、被告人とA子は、体型が違うことや、本件当時、中古品の着物の取引市場のようなものも存在しなかったことから、着物などについて、被告人が使用したり、他に処分して対価を得るために運び出したとは考えられず、その他の財物も被告人が使用したり、他に処分して対価を得るために、それらの財産的価値に着目して運び出したとは到底考えられない物ばかりであるから、現金及び預金通帳以外の物は、被告人が、A子を殺した後、A子の失踪を装うために思いついて運び出したに過ぎないと主張する。しかし、既に説示したとおり、被告人は、主に、家具などをKに誇示して、Kに対して母親が家具を送ってくれる旨言って張った見栄のつじつまを合わせるために、家具などを奪い取ったのであり、また、B及びCから引っ越しを装っていることを疑われないようにするために、家具以外のものも合わせて奪い取った側面もあるのであって、家具などを使用したり、換価したりすることを主な目的としたものではないから、被害品について、家具などの財産的価値が低額であることや、被告人とA子の衣類及び装飾品のサイズが違ったり、被告人に貴金属アレルギーがあって、被告人自身が使用できなかったり、換価できないものであるとしても、何ら不合理ではないし、被害品のうち、家具の占める割合が低いのも、多数の衣類及びアクセサリーなども一緒に奪い取った結果に過ぎないのであって、被害品の家具は一三点もあり、決して少ないとはいえないのであるから、これが被告人がA子を殺した際に家具を奪い取る意思がなかった証であるということはできない。

四  犯行の計画性

1 被告人が被告人方を借りた目的

被告人は、昭和五七年八月七日、被告人方を借りているところ、検察官は、被告人がA子から奪い取った家具を運び込む場所として借りた旨主張し、被告人はこれを否定する。

被告人は、要旨「私は、昭和五七年になってから、松山市で休憩する場所が欲しいと思っていたところ、神戸市まで付いて行けないので、同年九月になれば、Kと切れることから、同月から松山市でホステスとして働こうと思っており、また、Iに返すためにP子名義で借りた現金をIに返さなくてよくなったので、良い機会だと思って、着替えをしたり、始発で帰るまでの間の休憩や仮眠をしたりするための場所として被告人方を借りた。しかし、私は、同年八月一九日まで、仮眠や休憩のために被告人方を利用したことはなかった。私は、被告人方を借りる際、印鑑を持っていなかったので、Kに買ってきてもらったが、もし、私が被告人方を借りた日にどうしても部屋を借りるつもりであれば、自分が普段使っている印鑑を持っていったはずである。私は、「丙川」や客に被告人方を借りたのが分かると嫌なので、Kに借りたことを言わないように言った。私は、Kと会うために被告人方を借りたのではない。」と供述する。また、被告人は、要旨「私は、まとまった現金を得るために、A子から現金を奪い取ることを思いついた。私は、A子を殺して現金や家具を奪い取る計画を実現するために、P子名義でサラ金会社から一〇〇万円くらい借り、これを元に被告人方を借りた。」と供述する。

しかし、被告人がKに頼んで部屋を探すことに付き合わせていること、Kが連帯保証人となって被告人方の賃貸借契約を締結していること、Kに被告人方の合い鍵を渡していること、被告人は、昭和五七年八月ころは頻繁にKと会って肉体関係を持ち、見合いの話があるなどの嘘を付いてKの歓心を買い、さらに、同月一一日にはKの前で初めて涙を流し、「あなたは優柔不断だ。神戸について来いとも言わん。見合いも、止めとも、せえとも言わん。」と言ったことなどからすれば、Kと別れることを前提に被告人方を借りたというのは不自然である。また、被告人が不動産会社から問われて「水商売はしません。」と答えていること、同年ころは、働いても長続きせず、働いている期間よりも遊興に耽っていた期間の方が長いこと、被告人自身、Kと長く一緒にいたいと思って会ったり、自分で店をしたいと思ったりしていたので、「丙川」を辞めてから働かなかった旨供述している(八回六六丁)ことからすれば、被告人が働くための便宜を考えて被告人方を借りたというのは不自然であるし、被告人は、被告人方を借りた時点で約二〇〇万円の借金があり、被告人が働かない限り、元本を返済する見込みはなく、利息だけを支払うのが精一杯であったのに、被告人が同年八月一九日に至っても、具体的に働くための行動を取っているとは認められないことに照らせば、共益費込みで月額四万二〇〇〇円の賃料を払ってまで、着替えや休憩などをする場所を確保するためだけに被告人方を借りたというのは、不自然である。しかも、被告人が同年一一月ころにA子と共同経営の形で店を開店するつもりであり、N子から紹介された権利金や敷金が要らない店舗にこだわっていなかったという被告人の供述を前提にすれば、いくら金銭面でA子に頼ることを前提にしていたとしても、被告人が全く資金を調達しなくても済むとは考え難く、むしろ、不要な出費を抑えるような行動を取るはずであるし、また、被告人がP子名義で借りた現金をIに返さなくてよくなったので、良い機会だと思って借りたとしても、被告人の供述を前提にすれば、九月以降にはIへの借金を返済しなければいけないというのであるから、具体的な必要性が認められないのに、費用のかかる被告人方を借りたというのは、不合理である。

他方、被告人は、昭和五七年八月七日、急ぐようにして被告人方を賃借し、その後、Kに対し、その事実を口外しないように頼んでいるが、被告人は、A子と知り合う前である同年一月ころから、松山市にあるマンションを借りたいと思っており、同年四月ころ、Kと一緒に松山市にある賃貸物件を探しているから、被告人が急ぐようにして被告人方を借りたということだけでは、犯意の存在に結びつけることができない。また、「丙川」や客に被告人方を借りたことを知られるのが嫌なので、Kに被告人方を借りたことを言わないように言った旨の被告人の供述も、被告人が「丙川」で働いていると思っており、被告人とKとの関係も知らないBに、「丙川」などを通して、被告人方を借りたことが露見することを恐れたものと考えれば、不合理とまではいえないから、口止めをしたというだけでは、犯意の存在に結びつけることができない。

ところで、被告人方を借りなければ、母親が家具を送ってくれる旨の見栄を張ること自体不可能であり、被告人方を借りた後にKに対して母親が家具を送ってくれる旨の見栄を張ったこと以外に、被告人が家具を必要とする事情が認められないところ、わざわざ必要のない家具を運び込むための部屋を借りたうえ、罪を犯すことを前提に見栄を張るというのは、これまでの口先だけのものとは質的に異なる大胆なものであるといえるし、犯行のための道具の準備、犯行後の家具の運び出し、死体の遺棄などについて、必ずしも手際が良かったとはいえないのに比べて、余りにも用意周到なものといえるのであって、同一人の同一目的に基づく行動としては、整合性がないといえるから、被告人が、被告人方を借りた時点で、他人から奪い取ってまで、家具を被告人方に備え付ける意思があったというのは不自然である。なお、被告人が、A子方と同じ三DKの部屋を紹介されながらも、二DKの被告人方を借りていることも、被告人が被告人方を借りる時点でA子の家具などを奪い取る意思がなかったと考えられる一つの事情となり得よう。そうすると、被告人の母親が家具を送ってくれる旨の発言が、Kが被告人方に運び込まれた家具などを見ることを予想し、その出所を怪しまれないようにするためにしたというのも不自然である。

したがって、被告人の供述は、いずれも信用できない。

そこで、Kの転勤が差し迫っていたこと、被告人とKは、そのころ頻繁に会って肉体関係を持っており、被告人とKの関係が冷えていたとは認められないこと、被告人がしきりに見合いなどの話をしてKの歓心を買おうとしていたこと、Kが連帯保証人にまでなって被告人方を借りるのに深く関わっていたこと、Kが合い鍵を持っていたこと、被告人がBに対し、被告人方を借りたことを知らせていないこと、被告人が約二〇〇万円もの借金を抱えながら、水商売はしない旨言って被告人方を借りたこと、被告人が昭和五七年一月ころから松山市にあるマンションを借りたいと思っていたこと、被告人が同年八月一九日まで殆ど働かずに遊興に耽っていたことなどからすれば、被告人は、Kが転勤した後も、松山市で、Kと会ったり、遊興に耽ったりするための拠点を確保するために被告人方を借りたものと推認できる。

2 荷物を運ぶ手伝いを頼んだ点

被告人は、昭和五七年七月一九日以前に、C及びBに対し、荷物を運ぶ手伝いを頼んでいるところ、検察官は、A子を殺したうえ、家具などを運び出して奪い取る計画があったので、このような依頼をした旨主張する。

しかし、被告人がC及びBに頼んだ内容は、いずれも具体的な日時、場所を指定したものではないこと、被告人は、Cに頼んだ後、Cからどうなったのか聞かれると、「またひっついたみたいだから、あの話はもういいわ。」と言い、その後、Cに頼んでいないこと、Bはボンゴ車や自家用貨物自動車(軽四)を運転しているだけで、Cのように、大型車の運転免許を持ち、職業運転手としてトラックを運転しているわけではなく、また、人手の点からしても、Bが手伝うだけでは家具などを運び出すことは困難であること、Cは、トラックの運行予定は約一週間前ころに分かるので、被告人らがC方に来たときには、その予定が分かっていたところ、殊更被告人から聞かれたことや詳しく被告人に話したことはないが、話のついでにその予定を被告人に言ったのではないかと思う旨供述するだけであり、被告人が予めCの予定を知っていたとまでは認められないこと、被告人がCに対し、P子を介して頼んだ内容も、衣類の様な乗用車で運べるものを念頭に置いたものであることなどにかんがみれば、被告人のC及びBに対する右各依頼が、家具などを奪い取った本件犯行と関連があるとみることはできない。

3 犯行のための道具の準備

被告人がA子を殺すために使ったものは、A子方にあったA子の帯締め(本件帯締め)であり、被告人がA子の死体を梱包するために使ったものは、A子方にあったナイロン製縄やガムテープ、ポリエチレン製洗濯袋、毛布及びタオルケットなどである。そして、被告人が、凶器となりうる物や死体を緊縛及び梱包するための道具及び材料などをA子方に持っていったことや、A子方に行くまでにこれらのものを準備していたことは認められない。なお、被告人は、A子方から家具などを運び出す際、B及びCに対し、軍手を渡すとともに、自分も軍手をはめて作業を行っているところ、被告人は、公判廷で、その軍手がボンゴ車のダッシュボードに積んであった旨供述し、Bは、公判廷で、昭和五七年ころ、被告人や子供らを連れて山に行き、木の芽や花などを採取する際に軍手を使った時もあると思う、軍手をボンゴ車の助手席のダッシュボードに積んでいたかもしれない旨供述していることにかんがみると、被告人がA子方に行くまでに軍手を準備していたとまでは認められない。

4 死体遺棄の状況

A子は、犯行後、Bと一緒に死体を遺棄する場所を長時間かけて探しているから、犯行前に具体的な遺棄場所を考えていなかったことが認められる。

5 結論

被告人は、A子を殺した後、厳重に死体を梱包し、これを人目につかない甲野ビルの非常階段の踊り場まで運んでから、自分の痕跡を消したり、現金や預金通帳などを奪い取ったりした後、周囲が暗くなるのを待って、B及びCに電話をかけて家具などを運ぶことを頼んだこと、B及びCを待つ間に、TがA子方を訪れるや、A子から午後九時三〇分に今治市にある唐子浜で待っているとの伝言を頼まれた旨の嘘を言ったうえ、TにA子が所有する乗用車の鍵を渡して、Tが長時間A子方に戻って来ないように画策したこと、B及びCに対して、運び出す家具や終了時刻などを事細かく指示し、指紋を残さないように軍手を渡すとともに、自分も軍手をはめて作業を行ったこと、短時間のうちに混乱なく被告人方に家具などを運び込んだこと、翌日には自分の筆跡や指紋が残らないように配慮し、P子を利用して、A子から奪い取った預金通帳などを使って現金を引き出したことからすれば、被告人は、一定の目的意識に基づく沈着、冷静な行動を取っていたといえそうである。

しかし、被告人が被告人方を借りたのも、Kと会ったりする拠点を確保するためであること、B及びCに対する荷物を運ぶ依頼も、結局、本件犯行とは何の関連もないこと、被告人が昭和五七年八月一九日までに犯行のための道具の準備や死体遺棄の場所の検討をしていなかったこと、被告人が、A子が一人で在宅しているのを確かめたり、当初からA子方に行くつもりで松山市に行ったとは認められないこと、家具を運び出すためには、被告人以外の者の協力なしには困難であると考えられるところ、事前にBやCのその日の都合を聞いて、その承諾を得ていないこと、Cが被告人から電話を受けたのが外出直前のことであり、しかもレンタカー会社の営業終了時間の間際であったことなどからすれば、被告人がA子を殺して家具などを奪い取る目的で、A子方に行ったとまでは認められないのであって、検察官が主張するような本件犯行が綿密かつ周到な計画を立て、入念な準備を重ねて敢行された計画的なものであるとはいえない。

なお、被告人は、昭和五七年八月一三日ころから、Kに対し、部屋に入れる家具などについて、「家が狭いから、全部は入らない。ダブルベッドなどはとても入らない。送ってもらうのは、少しだけにするわ。」と言うようになり、犯行当日も、B及びCに対し、「ベッド、……はいらん。」と言って、ダブルベッドを被害者方に残したままにしているところ、検察官は、「このことは、被告人が本件犯行に先立ち、被害者方にダブルベッドがあり、その形状等をあらかじめ了知していたため、そのダブルベッドが、丙山ビル六〇四号室の大きさから入り切らないと判断し、搬入しないことも既に決めていたものであって、それ故、本件犯行後、あらかじめ被告人が決定していた計画に従い、C及びBに、ダブルベッドは搬出しなくてもよいなどと指示を出したものと認められ、これらの事実関係もまさに本件犯行が計画的なものであったことを如実に物語るものにほかならない。」と主張する。しかし、既に説示したとおり、被告人は、被告人方を借りた時点では、家具などを奪い取る意思はなく、A子方よりも狭い部屋を借りているうえ、被告人の、Kに対するダブルベッドが入らない旨の発言や、B及びCに対するダブルベッドを運び出さなくても良い旨の発言は、被告人方の広さを考えたうえでのものであり、特に家具などを奪い取る計画がなくてもあり得るものであることにかんがみれば、それらの発言が直ちに犯行の計画性を窺わせるものとはいえないから、検察官の主張は採用できない。

6 被告人がA子方を訪れた目的

なお、被告人は、本件犯行が計画的なものであることを否定する一つの理由として、共同で店を経営する話をするために昭和五七年八月一九日にA子方に行った旨供述し、検察官は、共同経営の話を前提にした被告人の供述は、信用できない旨主張するので、検討しておく。

被告人は、要旨「私は、自分の店を出したいという夢があったところ、N子から敷金がなくても出せる店がある旨聞いたので、A子に対し、店の共同経営の話を持ちかけると、A子から「そうやね。わたくしも、そろそろ独立したいんやけど。」と言われたが、店の規模、開店資金の負担や利益の分配の割合などについては一切話をしなかった。私は、N子から紹介された店舗の所在や家賃も聞いておらず、その下見に行ったこともない。私は、昭和五七年一一月ころに開店する予定だったので、他のホステスやボーイに声をかけたことはない。私は、同年八月一九日、共同経営の話をするつもりで、A子方に行き、「この前の話で、私は、今日は来たんやけど」「A子ちゃんがママさんでいいし、自由出勤でいいから、一緒にしてくれんやろうか。」と言うと、A子は、「甲田亭のママにも義理があるから、今直ぐは辞められんわい。」と言った。資金関係の話は、まだ一切していなかった。同日には、共同経営の話は決裂した。」と供述している。

まず、A子は、昭和五七年八月一九日、タンクトップとジョギングパンツという軽装のまま被告人をA子方に招き入れたこと、被告人とA子が一緒に飲酒していたことからすれば、被告人とA子とは、形式張らない、心安い関係であったと認めることができるから、被告人とA子が、同日、A子方で世間話をしたことは容易に認めることができる。そこで、被告人がA子との話の中で、N子から店舗を紹介されたことを一つのきっかけとして、共同経営に関する何らかの話を出したとしても、不自然とまではいえない。

しかし、被告人は、約二〇〇万円の借金があり、N子から紹介された物件について、下見も賃貸条件の確認もしておらず、開店時期も昭和五七年一一月ころと漠然と考えていたに過ぎないから、直ちに共同経営する店を開店できる状態にはなかったと認められることや、Oは、被告人とA子とが「甲田亭」で、同じテーブルにつくなどして親しく話をする機会がない状態であると認識していたこと、A子が友人のV子及びU子に対し、スナックなどを経営したい旨話したことがないこと、被告人は、スナックなどを開店する話を誰にもしたことがないこと、被告人が「甲田亭」を辞めた後、同年七月上旬ころ、A子方を訪問するまで、A子とは交渉がなく、A子と具体的に共同経営の話をしたことがなかったことからすれば、同年八月一九日ころに、被告人とA子とが現実性をもってスナックなどを共同経営の形で開店する話をするような関係であったとは認められない。そして、被告人は、A子に共同でスナックを開店する話を持ちかけた時期について、捜査官に対し、自分が「甲田亭」で働いていたときである旨供述しながら、証拠調べの結果、「甲田亭」でホステスとして働いていた際、A子とそれほど親密な関係にはなかったことが立証された後、自分が「甲田亭」を辞めた昭和五七年七月上旬ころである旨供述を変えており、その変遷について合理的な理由が見当たらないことを考え合わせると、共同経営の話をするためにA子方に行った旨の被告人の供述は、信用できない。

そこで、被告人は、既に説示したとおり、A子から家具などを奪い取る目的で、A子方に行ったとは認められないうえ、被告人が被告人方に家具などを備え付ける必要に迫られていたこと、被告人の経済状況、被告人とA子との関係、被告人がWに物を買ってもらうつもりであったこと、わざわざ土産にメロンを買って持って行ったこと、既に説示したA子が不愉快になった経緯などからすれば、被告人は、A子に対し、A子に経済的に負担をかける何らかの話(ただし、既に説示したとおり、少なくとも共同経営に関するものではない。)をするために、A子方に行ったものと推認できる。

五  被害品の価値

1 弁護人は、現金及び米国通貨を除く、その余の被害品の時価評価の方法を問題にしているので、当裁判所の考え方を明らかにしておく。

2 被害品の価値は、犯罪が成立することを示すために必要とされているものではないが、犯情の軽重を判断する資料の一つであるから、できる限りこれを表示するのが通例となっている。したがって、その価値を時価で表示することも必要とされているものではないから、その価値を示す方法としてどのようなものによるかは、事案に即して裁判をする裁判所の裁量に委ねられている。

3 既に説示したとおり、被告人は、その物の使用や交換を目的としてではなく、Kにその存在を誇示することを主な目的としてA子から家具などを奪い取ったのであるうえ、弁護人が疑問を呈していることからしても、全ての被害品についてその時価を算定することが容易とは言い切れないから、その価値を示す方法として、客観的な利用価値や交換価値を用いることよりも、調達価格を用いることが相当であると考える。すなわち、被告人は、主に、その物を取得すること自体を目的としていた(なお、C及びP子に渡した物についても、正当な引っ越しを装うためには、奪い取る必要があった。)のであるから、被害品が新品あるいはこれに近ければ同種同等の新品の販売価格を、中古品であれば、中古品の市場などがあって中古品として購入することが容易なものはその中古品の販売価格すなわち時価を、中古品の市場などがないため中古品を購入することが困難なものは同種同等の新品の販売価格をそれぞれ基準にして、被害品の価値を表示するのが相当である。

4 そこで、以上の観点から、家具(被害品内訳一覧表番号1ないし12)、宝石及び貴金属(同番号13ないし34、222)並びに洋服(同番号118ないし174、197ないし220)については新品の販売価格を、眼鏡及び時計など(同番号35ないし41、177ないし179、223、224)、アクセサリー(同番号42、45ないし62、77ないし97、180ないし182)、電気製品(同番号63ないし76、221)、着物(同番号98ないし117、183ないし196)、洋酒(同番号175)並びにその他(同番号176、225ないし227)については時価を、それぞれ基準にして、調達価格を表示することにする。

なお、ブレスレット(被害品内訳一覧表番号43)及びネックレス(同番号44)については、その調達価格を認めることができる証拠がない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、平成七年法律第九一号附則二条一項本文により、同法による改正前の刑法二四〇条後段に該当するところ、所定刑中懲役刑を選択して被告人を無期懲役に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中六〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

第一  事案の概要

被告人は、愛人に対し、母親がビジネスホテルと割烹店を経営しているなどの嘘を付いたりして、自分が富裕な良家の子女であるかのように装いながら、不倫関係にのめりこんでいった。ところが、被告人は、愛人が転勤のために松山市を離れることになったことから、愛人の愛情を繋ぎ止め、転勤後も交際を続けたいと思うあまり、愛人に対し、愛人が出張している間に母親が家具を送ってくれる旨言って見栄を張ったことから、家具を調達して、そのつじつまを合わせなければならなくなった。しかし、被告人は、他人名義で借金をしなければならない程経済的に困っており、自分の力だけでは、張った見栄のつじつまを合わせることが著しく困難な状況であった。そこで、被告人は、被害者と二人で飲酒しながら話をしていたところ、被害者が飲酒による酔いや眠気のため、激しく抵抗することが困難な状態に陥ったのを見て、被害者が多額の現金や預貯金を持っていると思っており、また、被害者方で豪華な家具などを見たことから、張った見栄のつじつまを合わせるために、被害者を殺してでも、被害者の現金、預金通帳及び家具などを奪い取ろうと決意し、被害者を帯締めで絞め殺した。それから、被告人は、現金及び預金通帳などを奪い取り、さらに、夫や親族を利用して家具などを被害者方から運び出して奪い取った。

第二  犯情

まず、何よりも、尊い人命を奪った被告人の責任は重大である。そして、犯行の動機は、これまで見栄を張りながら交際してきた愛人に対して、張った見栄のつじつまを合わせることにより、不倫関係を続けたいという、身勝手で自己中心的かつ短絡的なものであって、同情の余地はなく、自分の欲望を充たしたいがためだけに、尊い人命に対して一顧だにしなかった被告人には酌量の余地はない。

殺害態様は、被害者方で一緒に飲酒しながら話をしていた被害者が激しく抵抗することが困難な状態に陥ったのを見て、帯締めを被害者の首にかけて一回結んだうえで、確定的な殺意を持って、その両端を力一杯引っ張って窒息死させたというものであり、被告人を信用して部屋に招き入れ、飲物などまで提供した被害者を裏切る、凶悪かつ残忍極まりないものである。さらに、被告人は、被害者の前方から首を絞めて、被害者が苦しんでいることを認識しながら、何のためらいもなく、力一杯首を絞め続けており、極めて冷酷である。

そして、被告人は、被害者を殺した後、死体の顔にガムテープを貼ってポリエチレン製洗濯袋をかぶせ、死体をナイロン製縄で何重にも緊縛し、その上から毛布やタオルケットをかぶせて執拗ともいえるほどに厳重に梱包したうえ、被害者方から人目に付かない非常階段の踊り場まで運び出し、さらに、深夜、山中まで運んで、穴を掘って死体を埋め、その跡が分からないように細工までして死体を遺棄しており、被害者の人間としての尊厳を著しく踏みにじっている。その結果、被害者は、八日後に発見された時には、父親が顔を見ても分からない程にまで腐敗し、生前美人で評判であった容姿は、見るも無惨な醜態に変わり果ててしまったのであり、余りにも酷たらしく、悲惨で、哀れなことこのうえない。特に、被告人は、ためらうことなく、自分の子供が乗っている車に死体を積み込んでおり、母親らしさ、人間らしさの片鱗もみられない。

また、被告人は、被害者を殺した後、被害者方を物色して現金及び預金通帳などを奪い取り、さらに、長時間、被害者方付近に留まり、被害者の家具や貴金属類、着物、洋服などを奪い取っており、大胆不敵である。そして、その被害総額が高額であることは、その時価を明確にすることができないとしても、一般的に明らかである。それに、被告人は、夫らを待っている間に被害者の恋人が被害者方を訪れるや、家具などを運び出すのに必要な時間を計算したうえで、被害者が遠方の海水浴場で待っている旨告げたりして時間を稼いでおり、巧妙かつ狡猾である。

さらに、被告人は、奪い取った家具などを自分が借りた部屋に運び込むために、自分の言いなりになる夫や親族を呼び出して利用しており、全く関係のない者を巻き込んでいる。特に、被告人の夫は、被告人から人を殺したことを打ち明けられるや、被告人に対し、自首を勧めたにもかかわらず、被告人から被告人の頼みであれば何も断れない性格を見透かされていたために、被告人と一緒になって死体を山中に遺棄することを余儀なくされ、その結果、死体遺棄罪で身柄を拘束され、同罪により、懲役一年六月執行猶予三年の有罪判決を受けたうえ、その旨生々しく実名で報道されたことから、一生拭い去れない極めて大きな傷を負わされた。また、被告人は、犯行の翌日、被害者から奪い取った預金通帳及び印鑑を使って、筆跡などから本件犯行が発覚しないように親族の女性に払戻手続をさせて、首尾良く現金約七六万円を引き出しており、狡猾かつ悪質であるうえ、ここでも全く関係のない者を巻き込んでいる。そこで、永年連れ添った妻や、親しく付き合っていた被告人から裏切られ、犯罪行為に巻き込まれた者の心情を考えると、被告人は、余りにも身勝手で、自己中心的かつ無思慮である。

第三  犯行後の情状

一  公訴の時効制度の趣旨

1 被告人は、犯行後、約一四年一一か月もの間、逃亡生活を送り、公訴時効完成直前に起訴されているところ、弁護人は、時の経過とともに可罰性が減少するから、公訴時効の完成が近づけば近づくほど、その時の経過は情状面で被告人に有利に斟酌されるべきである旨主張する。そこで、この点について、まず検討する。

2 刑事訴訟法は、「刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的と」して(一条)、総則(第一編)及び第一審(第二編)などについて規定し、公訴時効の起算点について「時効は、犯罪行為が終わった時から進行する。」と(二五三条一項)、公訴時効の停止について「時効は、当該事件についてした公訴の提起によってその進行を停止し、管轄違又は公訴棄却の裁判が確定した時からその進行を始める。」「共犯の一人に対してした公訴の提起による時効の停止は、他の共犯に対してその効力を有する。この場合において、停止した時効は、当該事件についてした裁判が確定した時からその進行を始める。」(二五四条)「犯人が国外にいる場合又は犯人が逃げ隠れているため有効に起訴状の謄本の送達若しくは略式命令の告知ができなかった場合には、時効は、その国外にいる期間又は逃げ隠れている期間その進行を停止する。」(二五五条一項)と、公訴時効の期間について「死刑にあたる罪については十五年」「無期の懲役又は禁錮にあたる罪については十年」「長期十年以上の懲役又は禁錮にあたる罪については七年」「長期十年未満の懲役又は禁錮にあたる罪については五年」「長期五年未満の懲役若しくは禁錮又は罰金にあたる罪については三年」「拘留又は科料にあたる罪については一年」(二五〇条)とそれぞれ定めている。

3 また、刑法も「罪を犯した者が捜査機関に発覚する前に自首したときは、その刑を減軽することができる。」「告訴がなければ公訴を提起することができない罪について、告訴をすることができる者に対して自己の犯罪事実を告げ、その措置にゆだねたときも、前項と同様とする。」(四二条。平成七年法律第九一号による改正前の刑法も同旨である。)などと定めている。

4 このように、刑事法は、犯人が早期に自主的に処罰を受けるための行動を取ることを奨励し、「事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的と」しているところ、時が経過することによって証拠資料が散逸し、右目的を達成することが困難になるような事態が生じることもあり得る。また、日々新たな犯罪が起きている現代社会において、国家社会の人的及び財政的制約を受けつつ、右目的を達成するためには、ある事件について、一定の期間で機械的に捜査などを打ち切る根拠を与えることも、全体的に見ればやむを得ない面がある。そこで、公訴の時効制度は、このような観点から規定されたものと理解するべきである。

5 しかし、刑事訴訟法は、「共犯の……時効の停止は、他の共犯に対してその効力を有する。」(二五四条二項)、「犯人が国外にいる場合……には、時効は、国外にいる期間……その進行を停止する。」(二五五条一項)とそれぞれ定めており、一定の期間を経過した事実上の状態を尊重しつつも、単純に時が経過することによって公訴の時効が完成する建前には立っていないこと、被害者やその遺族の被害感情が、長い時が経過しても、決して癒されるものではないことは、本件の審理経過にかんがみて明らかであることからしても、公訴の時効が完成するために必要とされている期間が経過しただけでは、その犯罪の可罰性が失われるとはいえないから、公訴の時効制度は、時の経過による犯罪の可罰性の消滅を根拠とするものではないというべきである。そして、公訴の時効制度は、刑事訴訟法二五五条一項の規定に照らしても、「逃げ隠れて」、刑事訴訟法の目的である「事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを」妨げた犯人に恩恵を与えるための制度であるとは理解できない。

6 したがって、時効完成間際に公訴を提起されたという事情自体は、被告人にとって有利な事情とはなり得ないのであって、特にこのような事情が、後記のとおり被告人が「逃げ隠れている」ために生じた本件においては、なおさらである。

7 なお、公訴の時効制度の存在理由に、弁護人が主張するような可罰性の減少という側面があるとすれば、その側面は、逃走するに至った事情、逃亡中の被告人の生活状況から窺われる反省の念、被害感情や処罰感情の変化などを総合的に考慮することによって生じるものというべきである。

二  被告人の逃亡状況

1 被告人は、犯行後、普段と変わらない生活をしていたが、昭和五七年八月二四日午後七時前後ころ、P子からの電話で、二人の警察官がP子の自宅を訪ねてきたこと、Cが警察に呼ばれたことを聞き、また、同日午後七時過ぎころ、Cからの電話で、警察官が尋ねて来たことを聞き、捜査の手が自分に及ぶのを恐れ、Bに対し、「私、仕事があるので松山へ行って来る。」と言い残して、現金約一五万円及びB名義の通帳などを持ってタクシーで松山市まで行った。そして、被告人は、今治市まで行き、同日午後一〇時ころから一一時ころまでの間に、P子に電話をかけてCが帰宅したか否かを尋ね、P子から帰宅していない旨言われると、P子に謝った。それから、被告人は、大阪市まで行き、同月二五日朝、伊予銀行大阪北支店で、A子名義の預金口座から引き出した現金を入金したB名義の預金口座から現金五九万円を引き出した後、列車に乗り、昼ころ、金沢市に着いた。

2 被告人は、昭和五七年八月二五日、「A1子」と名乗り、金沢市にあるスナックに採用され、翌日からアパートに居住するとともにホステスとして働くようになり、同月三〇日、東京都内にある美容外科病院で目と鼻の整形手術を受けた。被告人は、同年暮れころに知り合ったC1と、昭和五八年初めころから石川県松任市にあるC1の実家で同棲するようになり、その後、黙って家具などを持ってアパートに移ったが、再びそのアパートでC1と同棲するようになり、同年秋ころ、被告人とC1は、金沢市にあるC1が勤務していた会社の二階にある部屋で生活するようになった。被告人は、この間、一度妊娠して中絶手術を受けた。被告人は、昭和五九年五月ころ、右会社の事務員であるD1子の健康保険証を無断で使用して、サラ金会社から借金をしたことが発覚したので、その後始末をC1にさせた。被告人は、その後、D1子から「C1さんがいたから、警察に行かなかったんよ。」と言われ、ふてくされて、「できるもんなら行ってみろ。」と言った。被告人は、C1が右会社を退職した後、C1と一緒に岡山県倉敷市や大阪市に遊びに行ったりした。それから、被告人は、C1が京都府にある運送会社で働くことになったので、その寮で同棲するようになり、一度に多数のブランドもののシャツを購入するなどブランド品を好んでいたが、約三か月後、その寮を出た。

3 被告人は、C1と同棲中の昭和五八年一〇月一三日、スナックに客として来た洋和菓子製造販売業を営むE1と知り合い、同年一一月終わりころ、肉体関係を持って、親しく交際するようになった。被告人は、昭和五九年九月ころ、C1のもとを飛び出し、金沢市でE1から毎月一五万円の生活費を貰って暮らすようになり、その間、ナイトラウンジでホステスをしたりし、E1が正式に離婚した後の昭和六〇年六月ころからは、石川県能美郡根上町のE1方で「F1子」と名乗り、内妻として菓子店を手伝って生活するようになった。被告人は、昭和六一年九月ころ、今治市までEに会いに行き、Eを根上町まで連れて帰り、Eを親戚の子であると偽って右菓子店で住み込みの店員として働かせるようになった。他方、E1の二人の子供は、いずれも被告人になつかなかったところ、E1の長女はE1の前妻に引き取られ、残ったE1の長男は被告人から冷遇されつづけ、被告人は、E1に対し、E1の長男を施設に預けたりしなければ、被告人が出ていく旨言っていた。被告人は、昭和六三年二月一二日、根上町にある大成町公民館にいたところ、捜査の手が間近に迫ったことを察知して、カーディガン、サンダル履きの軽装のまま、自転車を盗んで石川県小松市にある知人方まで行き、知人から二万円を借りて逃走した。

4 被告人は、その後、名古屋市にあるホテルで住み込みで働いたり、福井市にあるスナックでホステスをしたり、大阪市にある芸者旅館や千葉県にある芸者置屋で芸者をするなどして、各地を転々として逃亡生活を送っていたが、その間、スナックで知り合った複数の客と肉体関係を持ち、小遣いを貰ったりした。そして、被告人は、平成三年春ころ、京都市でEと会った。

5 被告人は、平成八年七月ころから、福井市にあるホテルを中心として逃亡生活を送るようになったが、情報提供に懸賞金がかけられた同年八月ころからは、働きにくくなり、職を求めて大阪市や福井市にいたが、平成九年七月二九日、福井市で逮捕された。

三  被告人が長期間逃亡した理由とその評価

1 被告人は、犯行直後にBから自首を勧められたが、少年時代に犯した強盗事件で勾留された際に警察官から厳しい取調べを受けたことや松山刑務所で強姦されたりした過去を思い出すと、自首をする気にはなれなかったため、また、その後、警察署に出頭したいと思ったが、Bが身柄を拘束されている間に自分が出頭すると、子供の世話をする者がいなくなるので、Bの処分が決まるまで出頭を見合わせていたところ、母親から電話で「これ以上騒がれると困る。出て来るな。」と言われたりしたため、出頭できなくなった旨供述する。

2 しかしながら、被告人は、Bが逮捕された後は、Bに対する処分が決まり、Bが出所すれば出頭しようと思っていた旨供述していること、昭和五七年九月一八日、同年一〇月三一日及び同年一一月一〇日のG1子との電話でも、同旨の発言をしていること、同年一〇月三一日の電話では、「もう、刑務所へ何か入っとるらしいわい。」(H1)「拘置所やろ。」(被告人)「拘置所。うん。重信か何かのね。」(H1)「うん。うん。松山拘置所。裁判が済むまではそこにおる。」(被告人)との話をしており、松山刑務所について何らかの感傷があるかのような気配も見せずに淡々と話を続けていること、逃亡中にB、K、H1、G1子及びE1などにかけた電話の中で、拘置所に入ること自体を避けたいような発言が見られないことからすれば、被告人が少年時代に警察官から厳しい取調べを受けたり、松山刑務所で強姦されたりしたことが任意に出頭しなかった大きな要因になっていたとは認められない。

3 また、被告人は、犯行後に電話をかけたG1子から、四人の子供らがいずれも親族に引き取られて、何とか生活していることを聞いたりしていたのであるから、Bが身柄を拘束されている間も、子供らが特に生活費を必要としていないことを認識していたはずである。そのうえ、被告人は、G1子から、電話で子供らの窮状を聞かされ、再三にわたり、一緒について行くので、子供らのために出頭するように諭されても、これに応じなかったのである。なお、被告人は、その理由として、「Bがおったら、(自首)しとりました。でもBがいないのに私が中に入ったら、あの二人はだれも見てもらえないし、お金も送ってもやることもできませんから」と供述するが、被告人は、遠い金沢市にいて子供らの面倒を見ることもできず、現金を仕送りすることもできない状態であったうえ、被告人が半年もすればBが執行猶予付きの判決を受けて出所できることを予想していたことからすれば、被告人が身柄を拘束されることが、子供らの現状にどのような影響を与えるというのか理解できない。

したがって、被告人が逃亡中に子供のことを考えていたことが認められるものの、被告人が子供らのことを考えたことが任意に出頭しなかった大きな要因になっていたとは認められない。なお、被告人が真に子供のことを考えていたのであれば、少しでも早く一家揃った生活を取り戻すために、少しでも早く出頭して、罪を償うことを考えるべきであったといえよう。

4 さらに、被告人が真摯に反省し、警察署に出頭する意思があったのであれば、万難を排してでもこれを実行するものと思われるのに、母親からこれ以上騒がれると困るので、出てこないように言われたくらいで、出頭を思い留まったというのは、かえって、そのような意思がなかったことを窺わせるものであり、被告人が、昭和五七年一〇月二日、Kに電話をかけた際、再三出頭を勧められたにもかかわらず、笑い声を交えながら、「そんなどじはせん。」「危ない。危ない。」と言って、軽く流すように答えたこと、被告人が、同年一二月までの間に、Bに対し、二、三回電話をかけ、Bから居場所を聞かれても答えず、警察署への出頭を勧められても、「そんなヘマはしない。」と言ったこと、昭和六三年には、捜査の手が間近に迫ったことを察知するや、直ちに軽装のまま逃走したこと、被告人が、同年二月一二日午後七時三〇分ころ、E1に電話をかけ、「盗聴していないか。」「警察は何人おるんか。」と聞いたりしたり、同月一三日午前四時ころ、E1に電話をかけ、「盗聴していないか。」と聞いたりしたこと、被告人が逮捕される直前まで偽名を使い、指紋が残らないように配慮していたことなどはその証ともいえるのである。

5 しかも、被告人は、被害弁償などをするつもりで貯めたという現金四〇〇万円さえも、自分が逃亡生活を送るために約一年間でその殆どを使ったというのであるから、これを前提にすれば、被告人が何よりも自分が逃亡することを優先させていたことを物語ることになる。

6 以上によれば、被告人がやむに止まれず、長期間、逃亡したような事情は認められないから、被告人の逃亡は、非難されることはあっても、有利な事情とはなり得ない。

四  被告人は、前記二で認定したとおり、捜査の手がCに及んだことを知るや、Bに対し、松山市まで仕事に行く旨嘘を言って早々と逃走し、その翌日には、逃走資金として被害者の銀行口座から引き出した現金を入金していた口座から現金を引き出したうえ、金沢市まで逃走するとともに、逃走後一週間もしないうちに、顔の整形手術を受けたりして、着々と逃亡生活の準備を整えていったのであり、この間、被告人が犯行を反省したり、悔悟したりした事情は認められない。

また、被告人は、金沢市で、ホステスとして働くとともに、C1と同棲生活を送り、C1に無断で家具などを持ち出したり、他人の健康保険証を利用して、無断でサラ金会社から多額の借金をし、これらの事実が発覚しても、逆に開き直るかのような態度を取っており、重大犯罪を犯した後も平然と犯罪まがいの行為をし、他人を踏みつけにする被告人は、ただひたすら、身勝手で、自己中心的な生活を送っていたとしか思われない。そして、被告人は、E1と深い仲になり、内妻として菓子店を手伝いながら、他方で、指名手配中であるにもかかわらず、大胆にも、今治市までEに会いに行き、Eを根上町まで連れて帰り、住み込みの店員として同居させ、その後、捜査の手が間近に迫ったことを察知するや、直ちに自転車を盗んだうえ、知人から金を借りたりして、なりふり構わず逃走し、その後は、働きながら全国を転々とし、複数の男性と肉体関係を持ち、逮捕される直前の平成九年四月から同年七月までの間だけでも、化粧品に約四〇万円、舶来の洋服に約六七万円を費やし、逮捕時でも、時価合計約四〇万円の貴金属類を所持しており、派手な生活を送っていたことからすれば、被告人は、逃亡中も、好き勝手に享楽的、快楽的な生活を求めて行動していたものといえる。そして、このような被告人の逃亡中の生活状況にかんがみれば、被告人が逃亡中に真摯に反省していたとは認められない。

さらに、被告人が逃亡したために、P子は、昭和五七年九月ころ、被告人がP子名義でサラ金会社から借りた合計約八〇万円を、Cの母親や姉から借金して支払うことを余儀なくされ、また、Bの母親は、被告人がQ子名義でサラ金会社から借りた合計約五〇万円を支払うことを余儀なくされており、被告人は無責任である。

なお、被告人は、何度も自殺しようと思い、現に自殺を図ったこともある旨供述するが、仮に自殺の意思やこれを図ったことがあったとしても、法は、人が自分で生命を断つことを決して容認していない(刑法二〇二条参照)から、自分で生命を断つことによって、あらゆる責任を果たしたとは短絡的に考えることはできないのであって、むしろ、生きて、真実を明らかにすること、被害者及びその遺族に謝罪してその損害を少しでも回復すること、法に則ってその罪を償うことこそが被告人に求められた責務なのであるから、これらの責務を果たせない自殺の意思などは、無責任と非難されることはあっても、有利な事情とはなり得ない。

五  被告人は、捜査官による取調べの際、被害者の元恋人や既に死亡している知人を共犯者に仕立て上げて虚偽の事実を供述したり、公判廷で、「(問 どうして八月二〇日にわざわざ被害者の預金を下ろしたんですか。)あれはP子がそう言うたから下ろしたんであってね、ちょうど子供も連れてきたかったし、あのときP子が二〇日って言わなかったら、下ろしてなかったと思います。

(問 どうして。)そんなに強いて必要でもありませんし、ただ、あのとき私が、あのとき欲しかって取ったことは間違いないんですので、P子にそう言うて電話をしたんだと思うんですが、P子が、いや、できないと断ったりとか、まだ先よとか言えば、下ろしてはなかったと思います。」(一〇回(一)二九丁)と供述したりして、責任を転嫁するかのような態度を示している。特に、共犯者に仕立て上げられた被害者の元恋人は、警察官から行動を監視されたり、ポリグラフ検査をされたりしたことについて、被告人に対して、「本当に腹が立ちました。」と供述していることも無理はなく、この点でも被告人は厳しく非難されなければならない。

六  被害者は、当時、三一歳という春秋に富む若さであり、結婚生活や故郷で実弟とともに喫茶店を開くことを夢見て、一所懸命働いていたところ、何の落ち度もないのに、被告人によって理不尽にもその生命を奪われ、その夢を打ち壊されたのであり、その無念の情は察するに余りあり、痛ましいことこのうえない。

また、被害者は、当時、故郷の両親に対して、月々何万円かを送金したり、盆や正月に帰省した際には必ず五、六万円を渡したりしていたほか、実弟の長男の入院中の面倒を看たり、家族と一緒に旅行をしたりして家族などに対して深い愛情を持って、細やかな心遣いをしていたところ、被害者の実父が変わり果てた被害者を見た瞬間、とても言葉では言い表せない気持ちであった旨供述していることに象徴されるように、被害者の両親、弟妹などの遺族が、突然、手塩にかけて育ててきた愛娘や優しくしてくれた姉の生命を奪われた衝撃、悲痛、怒りは察するに余りある。そして、被害者の実父が被告人の逃亡中は親としてどうしようもない気持ちであり、被告人が目の前にいれば、間違いなく殺していると思う旨供述して、被害者の実弟とともに被告人に対して極刑を望み、被害者の実母も被告人を絶対に許すことができないので、死ぬまで刑務所に入れてほしい旨供述するなど、遺族が口を揃えて被告人に対して厳罰を望んでおり、事件が発生してから長い時が経過した現在でも、遺族の被告人に対する処罰感情は、強まりこそすれ、決して弱まってはいない。

それにもかかわらず、被告人は、自分の肉親や逃亡中に知り合った男性などに対し、電話をかけたり、手紙を書いたりしているのに、逃亡中は勿論のこと、逮捕された後も、遺族に対して、積極的に慰藉の措置を講じようとしなかったのであるから、遺族らが揃って現在でも被告人に対して厳罰を求めていることも無理はない。

七  本件は、発生直後からマスコミによって報道されて人々に衝撃を与え、近隣社会に与えた不安も大きい。また、本件は、その後、時が経過しても全く風化することなく、かえって公訴時効の完成が迫るや、被告人を逮捕するために懸賞金がかけられたりして、再び社会の注目を大きく集めたものであり、社会に与えた影響は極めて大きい。

第四  被告人は、少年の時に犯した強盗罪により懲役三年執行猶予五年(付保護観察)に処せられた前科や、風俗営業等取締法違反の罪による罰金前科が二犯あるほか、逃亡中にも、種々の犯罪まがいの行為を平然と行っている。

第五  他方、現金一三万〇〇二〇円及び米国通貨四ドル一セント並びに家具などの被害品が被害者の遺族に仮還付され、あるいは領置されており、その限度で被害回復の見込みがあること、本件犯行が綿密かつ周到な計画を立て、入念な準備を経て敢行された計画的犯行とまでは認められないこと、被告人の長期間にわたる逃亡を可能にした背景には、捜査機関による初動捜査の遅れ、逮捕のための準備不足などの種々の不手際があったことが否定できないこと、被告人の前科は本件犯行時においても、五年以上前のものであること、被告人は、被害者を殺したことを認めたうえ、毎日朝晩の回向を欠かさずして、被害者の冥福を祈り、今後もこれを続けるとともに、できる限りの被害弁償をし、四国八十八か所を回ったり、被害者の墓に参りたい旨供述しており、反省の情も認められること、その他被告人の家族関係などの被告人にとって酌むべき事情もある。

第六  そこで、これらの諸事情を総合して考慮すれば、無期懲役刑を選択すべきものと考えるが、第二ないし第四で説示した諸事情にかんがみれば、被告人の刑事責任は極めて重いといえるのであって、さらに酌量減軽をすることは相当ではない。

(求刑 無期懲役)

(裁判官 磯貝祐一 裁判官 西川篤志)

裁判長裁判官 山本愼太郎は退官のため署名押印することができない。

(裁判官 磯貝祐一)

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